ムービング・マイ・ハート低い雲の遙か上をゆくのだろう飛行機の音が地上まで届く。ビアンキは折れたヒールを川に投げ捨てる。裸足になった。携帯電話を取り出し、誰かを呼び出そうとしたが、それも川に投げ捨てた。橋の上を行く観光客の群れがじろじろと不躾な視線を投げてくるが、ビアンキはすっと背筋を伸ばしたまま、橋の半ばに佇んでいた。 轟音が過ぎると震えた雲から落ちてくるかのように、雨粒が頬を打った。彼女は溜息もつかず歩き出す。露天の両脇に立ち並ぶ長い橋を渡り、たもとまで来たところで足が止った。古いトラックが目の前に停まっていた。 「ビアンキ…?」 運転席に座る男は目深にかぶったニット帽を持ち上げ、驚いたように彼女の名前を呼んだ。トラックの荷台にはほとんど何も載っていない。男がキーを回すと、ぼん、と黒い煙を吐き完全に停止した。 「どうしたんです、そんな寒そうな格好で」 男は運転席から下りながら話しかける。確かに彼女は上着も羽織っていない。剥き出しの肩や、ドレスの裾からのぞく膝が赤く染まっている。しかし彼女の身体は全く震えていなかったし、人形のように整った顔は感情さえないかのように男を見返した。 「足の裏が汚れますよ」 彼は躊躇わず自分の靴を脱いで彼女に履かせた。男の靴下の柄はターゲット柄だ。男は自分の足と靴下が泥濘で汚れるのを気にしない。乗っていきますか、と彼は誘った。ビアンキは黙って助手席に乗り込んだ。それを待ちかねていたかのように、ざんと雨は降り出した。 トラックの幌を打つ雨音がけたたましい。車は街を抜けると高速道路に乗った。街明かりが雨けぶりの彼方、どんどん遠ざかる。道は草ばかりの丘陵を目指して伸び、ビアンキは草原が黄昏の蒼い闇の中にで雨に打たれるのを黙って見つめていた。 民家の明かりも見えなくなるころ、雨雲の裳裾を払うように空は晴れ、丘の上に星が輝きだした。車が大きく揺れた。ビアンキと、運転席の男の身体も跳ねた。トラックは舗装されていない道を走り出した。タイヤが小石を跳ね飛ばす音。車体をぎしぎし軋ませながらトラックは丘を上り、枯れた草の中に建つ一軒の家の前で止った。 「どこ?」 トラックから降りたビアンキはようやく口を開いた。 「どこ、ここ」 「新しいヤサです。年の暮れにやらかしましてね、先のが割れちまったんですよ」 男は先だって家に入ると、玄関脇に置かれていた蝋燭に火を灯した。 「今日、越してきたばかりで、何もない。でも、温泉は出ます」 蝋燭の明かりに誘われ家の中に踏み込むと、タイル敷きの床の上に白い浴槽が据えられていた。男は壁の蛇口を捻る。しばらく水道管の奥でぐずぐずいう音が聞こえていたが、急に堰切ったように湯が流れ出し、浴槽からもうもうと湯気が立ち上った。 男が促し、ビアンキは椅子に座った。男は丁寧な仕草で靴を脱がせ、彼女の足の裏を拭いた。蝋燭の明かりの下に彼女は見た。 「靴が泥だらけだわ」 「死人に履いてもらうより良いですね」 「死んだの?」 「新年を前に」 熱い温泉の中に身を浸して、ビアンキは溜息をついた。男はトラックの荷台に積まれた数少ない荷物(レコード、数冊の本、何種類かのニット帽の入った箱)を家の中に運び込み、今はタオルを探している。 「モレッティ」 彼女は男の名前を呼んだ。男は遠くにいたらしく、大きな声で返事をするとばたばた駆けてくる。 「どうかしましたか」 「座って」 ビアンキはモレッティが屈むと、その首をつかまえて柔らかな唇を押しつけた。 「…目を瞑って」 モレッティがあまりに目を見開いているので、彼女は言った。モレッティは教皇勅令にでも従うように、厳かに目を閉じた。 「おかえりなさい」 ビアンキは新年のラッパと共に蘇った男に優しく囁き、温泉の匂いのするキスをした。 2009.1.5 |