at the eleventh destination





 まるで君の心臓に俺の血でサインしてあるみたいだ、と沢田は獄寺の裸の胸に強く頬を
擦りつけた。獄寺は沢田の頬が濡れているのに気づいた。何度痛みに泣いただろう。結局、
今夜も果たせないまま夜が終わる。空気の、澄んだ粒子が、ぽつ、ぽつ、と光を孕み始め、
カーテンも扉も幾重にも閉ざしたこの部屋の中で、折り重なるように獄寺の上に伏す沢田
の裸体を、その輪郭をピントの合わないぼやけた線で現す。目を瞑り、手で触れると、瞼
の裏には紗を取り払ったような明確な姿が現れた。沢田は、まだ涙の滲んだ視線を獄寺の
胸の上に落としていた。ゆっくりと、瞬き。
「ドキドキ、いってる」
 囁き、唇の端を緩める。目が細められ、今までぎゅうぎゅうと押し付けられていた頬が、
柔らかく擦り寄る。


 ピアノの前に二人並んで座ると、急に、自分が今生まれたばかりのような清浄な、否、
もっと空っぽの何もないまっさらな魂と肉体でいるような気がする。それは隣の沢田も同
じなのだろうか。鍵盤の上に指を置き、ゆっくりとした呼吸で、僅かに伏し目がちに、獄
寺の合図を待っている。
 二人でゆっくりとピアノを弾きだす。獄寺が主旋律を、沢田は繰り返しの和音を。扉の
向こうで山本がそれを聞いている。ボディーガードではない。彼は忠実な一衛兵ではなく、
一番熱心な観客としてS席に腰掛け、耳を傾けているのだ。
 この瞬間に全ての恐怖は消え去る。拙いゆるやかな連弾が、ブエノスアイレスでのあの
激しい演奏よりも、脳の奥の奥まで陶酔させる。獄寺は右目の瞼を閉じる。鍵盤の位置も、
沢田の指の位置も、見えなくとも分かっていた。ピアノの音が聞こえる、沢田の呼吸が聞
こえる、沢田の指使いが聞こえる。ドアの向こうの山本の肩の揺れる音。どこか遠くでピ
アノの音色に耳を澄ますリボーンの呼吸。様々なものが聞こえて、やがてそれは一つの旋
律となる。
 沢田が生きていることを全身で感じる。涙が湧き上がり、堪えることが出来ない。


「…どうした?」
 控え目に扉の開く音、それから控え目に覗き込んだ山本の顔。
 山本は、突然、途切れた連弾を訝しんで部屋を覗き込んだが、二人を見てすぐに表情を
崩した。
 獄寺と沢田、二人とも泣いていたからだ。


 山本が、ねこ踏んじゃった、を弾いている。獄寺は最初、のみのワルツ、と覚えていた
気がするが、確か、他にもタイトルがあったはずだ。と、足先に痛み。
「あ、ごめん!」
 弾かれたように沢田が退き、その所為で手を繋いだまま体勢を崩す。獄寺は慌てて抱き
かかえるように沢田を引き寄せ、それを見ながらエンドレスにワルツを弾き続ける山本が
笑いを漏らす。
 沢田が気を取り直して背を伸ばし、獄寺の正面に立つ。獄寺は強く握った手を、そっと
取り直し、それから一、二、と呼吸を合わせて足を踏み出す。ダンスは、もう二十年ぶり
かもしれない。


 眼帯がそっと外され、左の瞼の上にキスが落ちる。沢田は儀式のように、それを欠かさ
なかった。それが獄寺を纏う最後のものだったからだ。
 沢田に触れるたび、心臓がきゅうきゅうと音を立てて痛む。彼は自分のがさついた手を
知る。そして滑らかな沢田の肌を惜しむ。この人は誰にも汚されてこなかったのに。「ま
さか」と沢田は苦笑するが、獄寺の目には、沢田は十三の時のままの美しさなのだ。
「じゃあ、十三歳に手を出すのって、犯罪じゃない?」
 上がる息を隠さず、沢田は言った。その言葉に緊張して獄寺が手を止めると、くすくす
と掠れるような笑い声が聞こえた。嘘だよ、と沢田は囁いた。
 おどおどと触れる。今も恐怖が勝る。そんな獄寺を導くように沢田が手を添わせる。沢
田の指が、獄寺の、刃物の貫いた傷跡を撫ぜる。すると、不意に、沢田への気持ちが火薬
に着火したように爆発して、後は息を乱しながら、指でなぞり、唇で触れ、舌で清める。
沢田の声が質を変える。
 甘い喘ぎは急に悲鳴に変わり、それからすすり泣きが低くベッドの下を這った。
「痛いですよね…」
 獄寺は涙をぼろぼろと沢田の上に降らせながら、声を詰まらせた。
「すみません…」
「どうして、獄寺くんが、泣くんだよ…」
 沢田も涙を滲ませながら返した。手を伸ばし、獄寺の、涙に汚れた頬を拭う。あられも
なく泣き続ける姿は、見たことのない彼の子供時代のようだった。
 キスをすることで精一杯の感情を伝えながら、痛みを伴う行為を何とか終焉に持ってゆ
く。沢田の口から耐え切れない悲鳴が細切れに響き、獄寺は懸命に熱を引き上げ、そして
急落下の瞬間、また全ての音が消えた。
 無音の中に蘇ったのは沢田の、涙の混じった息遣いだった。それから自分の心臓の鼓動
と、それにあわせた呼吸。熱の引いた後には苦さしか残っていない。獄寺は強く瞼を閉じ
た。沢田の身体にはこれ以上触れていられない…。
 獄寺は退こうとした。が、沢田が肩を掴んで引き止めた。
「まだ…」
 沢田が喘いだ。
「もう少し……」
 彼は言い淀んでいたが、ぐっと唾を飲み込み、抱いててよ、と獄寺の耳元に囁いた。
 全身が反応した。沢田はまた痛みを感じたかのような、小さな悲鳴を漏らしたが、その
息は小さく続く笑い声になっていた。獄寺は沢田の笑いに戸惑いながら、命じられるまま
に、彼を抱き締めた。くう、と小さな声を漏らし、沢田は獄寺の胸に顔を擦り寄せた。


 窓を開けて、と沢田が言った。夜明け前の街は青い影に沈み、冷えた空気は冷水のよう
に部屋の中に流れ込む。しかし沢田はベッドの上に裸体を晒していた。獄寺が湯で絞った
あたたかなタオルでその身体を拭くのに、されるがまま、大人しくしている。
「獄寺くん」
 はっきりとした声で沢田が呼んだ。獄寺は、返事をして沢田の顔を覗き込んだが、急に
視界が揺れる。沢田の両腕はしっかりと獄寺の首を抱え込み、自分の胸に押し付けた。慌
ててじたばたと手を動かす獄寺を、沢田は笑ったようだった。ふふ、と笑う声が耳をくす
ぐった。
「シャワー、浴びてないんだ」
 思わず、すみません、と小さな声で謝ると、頭をぶたれた。
「何でもかんでも謝るなよなー」
「…すみません」
「また」
 獄寺の身体は引き摺り倒されたままベッドに押さえつけられ、かわりに身体を起こした
沢田が見下ろしていた。窓を背に、白い身体が浮かび上がった。
「獄寺くん、俺ね」
 沢田の手が優しく獄寺の長い髪を梳いた。
「俺、獄寺くんとのセックスの相性、よくなくて、よかったと思ってるんだ」
 顔が赤らんだのだろう。自分でもそれが分かった。沢田も獄寺の耳に触れながら笑った。
「よかったらさ……、もし相性すごく良くて、最初から物すごく気持ちよかったりしたら
さ、俺、…って言うか俺たち、死んじゃうよ、きっと。昼夜関係なくやっちゃってさ、フ
ァミリー壊滅だよ」
 自分で言いながら面白かったのか、沢田は喉で、くくっ、と笑った。
「でもね」
 沢田の手は頬に触れた。
「物凄くよくてもよかったんだけどね、向こうにいる時の獄寺くんみたいに、破滅しちゃ
うまでいくのも、俺たち二人だけなら悪くない気もするけどさ…。今日、皆でご飯食べて、
二人でピアノ弾いて、山本がねこ踏んじゃった弾いてくれて、毎日暮らすだろ。そしたら
さ、今みたいに、毎晩、毎晩、獄寺くんに触るのが楽しみになるの、すごく、好きなんだ
よね。触るたびに気持ちよくなるんだよ。だから…」
 優しく見えない瞼の上を撫で、頬を撫でる。
「獄寺くんに触られるのも、すごく、好きなんだ」
 それから沢田は沈黙した。待っているのだと、ようやく獄寺は気づいた。身体を起こし、
抱き締める。肌の表面は夜明け前の風に当てられて、冷えていた。腕の中で、沢田がうっ
とりと呟いた。
「ゆうべより、気持ちいい」
 冷たい手が獄寺の背にまわる。息だけ熱く、耳元に吹き込まれる。
「さっきより、もっと、気持ちいい」
 獄寺は沢田の髪を撫でた。沢田の肩が震え始めるのを感じた。それと共に、自分の心臓
も震え始めた。沢田は言った。自分の心臓には沢田の血でサインがされている。別々の肉
体を一つに繋ぐために魂が約束している。獄寺だけが魂を捧げたのではない。沢田もまた、
獄寺に捧げたのだ。
 二人は震えていた。恐怖ではなかった。ただ風に吹かれるままに震えていた。まるで魂
も肉体も別のないような、生まれたばかりのような心地。ピアノの前に二人並んで座る時
と同じ。清浄、と言うより、この世が存在する前から一つに重なっていたような。
「俺も…気持ちいいです」
 震える声で獄寺は言った。
「好きで、好きで、あなたに触ると、それだけで心臓が壊れそうで…、泣きそうです」
「…泣けっ」
 沢田が泣き笑いになりながら小さく叫び、獄寺の背中を抱き締めた。


 昼前だと言うのに、二人は起きてこなかった。山本は少し気後れしながら、そっと部屋
の中を覗いた。窓からはあたたかな光が差し込み、ベッドの上には、子供が昼寝をするよ
うに、沢田と獄寺が並んで眠っていた。二人が手を繋いでるのを見て、山本は苦笑した。
「ちぇ」
 その静かな朝、こっそり二人の唇を奪ってやったのは、山本の人生最大の秘密である。




at the eleventh destination







 報われる獄ツナでリクエストをいただきました。
 獄ツナなのに、メンタル面はどれだけ反転してるんだ君たち…!
 とは言え、ずっと書きたかったことを、書かせていただきました。
 このようなハードル越えとなりましたが、いかがだったでしょうか…。

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