第5章開いた指から写真が離れる。引き裂かれた沢田の笑顔が、ひらり、とテーブルの上を滑 って床に落ちる。獄寺はそれに手を伸ばす。 とん、とそれは獄寺の指先、皮一つ隔てた床の上に突き刺さった。奇妙な柄のナイフが 鋭利な光をたたえ、獄寺の指が写真へ届くのを阻んでいた。獄寺は慎重に首を持ち上げた。 男はテーブルに肘をついたまま、微笑を消していなかった。右手が歌うように何かを言う。 しかし獄寺はそれを最後まで見ない。彼は脇目もふらず走り出した。狭い店内にひしめく テーブルや椅子を引き倒し、ドアを蹴破る。 通りに満ちる明るい日差しが身体を包むか包まないか、その刹那、肩に走った痛みに、 前のめりに転がる。丸くなった背を幾つもの刃が掠めるのが分かった。遠くから聞こえる 老人たちの悲鳴。土埃にまみれ、通りに転がったまま見上げた向いの店のシャッターには ナイフが紙でも貫くように易々と突き刺さっていた。 獄寺はナイフの突き刺さったシャッターに背を押し当て、ずり上がるように立ち上がっ た。通りを隔てた暗い店内には、佇む男が右手を薙いだ格好のまま、何とか死を免れた獄 寺を見て笑っていた。しかしその笑顔は先の微笑と変わった、暗い笑みだった。 肩がずきりと痛んだ。思わず掴んだ手のひらは真っ赤に染まっていた。傷は浅くない。 暗い笑みを浮かべる男はゆっくりと腕を下ろし、反対の腕をそっと懐に差し込んだ。よう やく獄寺の肌が震え始めた。伝わってきたものは殺気だった。 新たな刃が首筋を掠めるや、獄寺は逃げた。あいつは殺し屋だ。あのナイフは脅しでも 護身でもない、殺し屋の刃だ。獄寺はあの男が殺し屋だとは知らなかった。普段、用心棒 として入り口に佇むだけの男だ、特別な得物を持ち合わせているとも想像しなかった。が、 今これを目の当たりにすれば、まさか…などという悠長な言葉を言ってはいられない。獄 寺にはナイフを投げるアクションがほとんど見えなかったのだ。 細い路地を抜け、スーツの白人で賑わう目抜き通りに出る。早足で人波の間を擦り抜け ながら、常に背中があの男の視線を警戒する。視界がぐらぐらと揺れる。遠近感が掴めな い。人とぶつかるたび、ポケットの中の写真立てが服の上から刺さる。獄寺は目を閉じる。 しかし瞼の裏に映るのは死の恐怖ではなかった。そこには沢田の姿しか浮かばなかった。 彼はとうとう道の端にしゃがみこんだ。全力で逃げ続けるには、この身体も、髪も、そ してそのなかに乱雑に詰め込まれた魂の残骸、全てが重すぎた。特に走るたびにごろごろ と音を立てるこの残骸。瞼の裏の笑顔を、再びこの目で見てしまった瞬間から重みを、ぬ くもりを、あろうことか鼓動まで取り戻そうという魂が内側から獄寺を揺さぶり、彼はま ともに息をすることも出来なかった。 昨夜まではこの笑顔の他に恐ろしいものなどなかった。獄寺は死を厭いこそすれ、しか し恐ろしくはなかったのだ。もうこの世には意味などなかったから。この世界には沢田が おらず、沢田に仕え得る自分は十年前に死んでいた。だから赤ワインと肉を詰め込むばか りのずだ袋のような身体など、いつ滅びようが全く問題ではなかった。 ポケットの中から写真立てを取り出す。剥き出しのコルク材に獄寺は額を押し付ける。 この中にずっと閉じ込め続けた笑顔。十年前の爆薬に焦げ、僅かに変色した沢田の笑顔。 彼の唯一の財産にして、永遠の負債。 軽い衝撃が手を、そして頭を襲った。それは軽く指先でつつかれでもしたような衝撃と 言うほどのものでもなかったが、しかし獄寺は今度もタイミングこそ遅れていたものの、 それをしっかりと察知した。殺意だ。 写真立ての裏には小さなナイフが刺さっていた。刃はコルク材を貫き、獄寺の顔を傷つ けるには僅か紙一重の距離でこちら側に突き出ていた。獄寺が立ち上がると、人波の向こ うに一つだけ動かない人影があった。既に笑ってさえいない茶色の目が凝視している。睨 み合ったのは数秒だった。彼の姿は不意に人波に掻き消えた。後を追おうとしても、獄寺 にはその後姿を見つけ出すことが出来なかった。十年前なら、いや五年前ならこんなこと はなかった。すっかり鈍ってしまった肉体と五感に彼は悪態を吐いた。 その時、獄寺はナイフが縫いとめた小さなメモに気づいた。あの酒場の紙ナプキンだ。 乱暴な文字が、静かに叫んでいた。 『お前の人生が繰り返したように、裏切るがいい』 湧いた一抹の恐怖に頭が回転しだした。がらんどうの身体の中から魂ががらがらと音を 立てて急き立てる。 死んでも、とあの男の手話は言ったようだった。しかし果たしてそうだったろうか。獄 寺は手話を、男の話す半分も理解していないのだ。あれは、殺しても、ではなかったのか。 男は獄寺を沢田には渡さぬと言い、獄寺を攻撃した。しかし、あれは獄寺の意識を逸らす ためではなかったのか。獄寺を渡さないと言えば、真っ先に消すべきは獄寺を迎え入れる 腕ではないのか。 ぞっと、足の裏が氷の針でも踏んだかのように身体中が粟立った。あいつは、あの男は 沢田を殺すつもりだ。あの写真を破り捨てた時点で気づかねばならなかったことを、何故 自分はみっともなくもここまで這い、逃げてきてしまった。男が本当に狙っているのは、 自分ではない、沢田なのだ。 しかし沢田は目覚めると、その姿を消してしまっていた。昨夜、沢田は何と言っていた。 自分を連れて行くと言った。違う。ヒントはもっと別の場所にある。沢田はこの街に一人 で来たのではない。部下を二人つれて…。十年前に起きた真実を知っている人間。リボー ン、キャバッローネのディーノ、姉、医者、……山本だ。山本さえ知っていたと沢田は言 った。おそらく沢田についてきた部下はリボーンと山本の二人。リボーンがタダで自分を 赦すだろうか。ようこそとばかりに自分をイタリアに迎え入れるだろうか。 十年前の記憶を辿る。リボーンの方法。試験、試練の類。それはきっと獄寺が沢田を探 し出すこと。測られているのは獄寺の意志、忠誠心、それから? 頭がパンクしそうだった。こんなに頭を働かせたことなど、もう何年もなかった。毎日 自堕落に目覚めては、その日一日を生き延びるためピアノを弾く。ペソ札を掴んで酒と肉 を食らい、また泥のように眠る日々。あの男は…。獄寺は悔しさに似た激情に吐き気を堪 えた。ピアノ。忘れた曲、新しい曲を弾くために買いためた楽譜が自分の部屋には散らば っている。畜生、あの男は…! コルク材から突き出た刃を獄寺は睨んだ。ぎりぎりと凝視する、その時、チカッと何か が閃いた。獄寺はナイフを抜き、もう一度間近でコルク材を凝視した。黒い染みがある。 それは僅かな、小さな染みだったが、コルクの模様ではない。線を二本描いたような染み。 考える暇はなかった。あの酒場で男がそれを処分していれば終わりだ。 足音高く店内に駆け込んできた獄寺に、再び老人たちは悲鳴を上げた。死人が帰ってき たと思ったのだ。が、構っている暇はない。獄寺は床に這い蹲り、そして見つけた。真っ 二つに裂かれた沢田の写真。それを拾い上げ、裏返す。そこには黒いインクの文字が滲ん でいた。 『at the 11th hour』 恐ろしさのあまり警察に電話をしようにも出来ない主人の手から受話器をもぎ取り、電 話帳を引き千切る勢いでページを捲り、獄寺は電話をかけた。そして知った。 イタリア行きの飛行機が11時に出発する。 沢田の隣には山本が直立不動のまま動かなかった。ガラス張りの壁から見えるのは、国 旗と同じ色の清々しいまでの水色の空だ。雲は一つとてなく、射す午前中の光は爽やかで 汗も出ない。人が入れ替わり立ち代りするものの、ざわめきは穏やか、そして静か。空調 の温度も快適だった。それで尚、閉塞した感があるとすれば山本の沈黙があまりに重いせ いだろう。 「まるで山本が死ぬみたいだ」 そっと囁くと、山本は短い沈黙を挟んで「そうだぜ」と答えた。 「あいつが来なかったら、俺、今度こそ……」 その先を言わなかったのは、些か感情的になっているとは言え彼が過ごした十年の賜物 だろう。山本は矛先を変えた。 「リボーンは落ち着いてるな」 「信じてるからね」 今、二人の視界の中にリボーンはいない。少し離れたところから、死角を補うように沢 田を守っている。 「…あの小僧みたいに徹するにゃ、どうしたらいい?」 山本は弱音を吐き出すように言った。沢田は小さく笑った。 「俺、今のままの山本がいいよ」 「まさか」 「安心する」 沢田はそっと山本の腕によりかかった。ほんの僅かだけ体重をかけ、相手の肩に軽く頭 をぶつける。 「だって俺たち、ただの24歳だもん。知ってた? 俺たち、意外と若いんだよ」 「若い、なあ…」 くうっ、と小さな声を漏らし、山本は足元からぶるぶると震え、どんどんどんと足踏み をした。 「くそっ、獄寺、早く来ねえかな!」 「…来たぞ」 耳元にリボーンの低い囁きが吹き込まれた。二人はハッとして目を見開いた。 男が一人、三人の目の前に佇んでいた。それは今朝、ほんの数時間前夜明けの路地で出 くわした男だった。 「獄寺は……」 山本が低く呟いた。 電光掲示板の文字がパタパタと変わり、搭乗のアナウンスが響き渡る。沢田は奥歯を噛 み締め、じっとその場から動かない。山本もそれ以上、口を噤み沢田の隣でわずかに身構 えた。沢田を挟むようにしてリボーンが佇み、黒い中折れ帽の影から鋭い眼を覗かせてい た。 時間が凝固してしまったかのように、空気が密度を上げる。息苦しさに耐え、沢田は立 ちはだかる男の彼方を見つめ続ける。 最初に動いて見えたもの、それは灰色の髪だった。血の滲んだ肩が揺れ、今にも転びそ うな足取りで、彼は駆けてきた。乱れた髪の向こうの目が沢田と視線を合わせたとき、凝 固した空気は砕け散った。 「十代目!」 獄寺の叫びが響き渡った瞬間、男が振り向いた。がくり、と獄寺の膝が崩れた。 「獄寺くん!」 思わず叫んだ沢田の腕をリボーンが掴んだ。冷たい瞳が沢田の高揚を貫いた。沢田はじ っとリボーンの視線を受けると、ようやく震える息をなだめた。 よろよろと獄寺の身体が持ち上がった。肩の血がシャツを半分も赤く染め、息は上がっ ていたが、しかし目には意志の光が宿っている。 「十代目に、手を出すな」 獄寺は言った。 「俺はここに残る」 辛うじて動揺を堪えた沢田を見上げるようにして、獄寺は言った。 「俺はイタリアへは行けません、十代目。確かにあなたの言葉は嬉しい、俺はあなたがそ う言って赦してくれるのを、ずっと待っていたんです。そして昨夜、あなたが現れた。目 の前で俺を責めて、赦してくれた。俺には過ぎた幸福です」 男はじっと動かない。その両手にはナイフが一本ずつ握られていたが、今は静止してい た。男は語りかける獄寺の唇を見つめ、それを読み取っていた。 獄寺は続ける。 「けれど、俺がイタリアに行けば、他の部下からどれだけの反感が湧くか分かりません。 あなたはボンゴレのボスです。俺は十代目に仕えて死にたいと思っていました。だけど、 俺がその望みを叶え、イタリアに行ってしまったら、逆にあなたをどれだけ不幸にするか 知れない」 獄寺はその視線を、目の前に立ちはだかる男に戻した。 「だから俺はここに残る。お前の望みどおりだ。文句ねえだろう。十代目に手を出すな」 最後の言葉が静けさに吸い込まれると、男の手が動いた。男は手の中でくるりとナイフ を持ち替えた。右手が己を指差す。 俺、言った、死んでも。 獄寺の表情がさっと変わる。男は刃を己の首に向けている。 裏切るがいい。今までの人生のように。それは沢田ではなく、この男を。今まで騙し、 裏切って、新しい土地に逃げたように、この男を裏切って、そしてイタリアへ。沢田との 幸せな生活を得るために、この男を殺して……。 血飛沫が男と獄寺の顔に散った。憎しみそのもののような男の目が間近にあった。しか し獄寺はもうそのような感情を誘発されなかった。手のひらをナイフが貫いているのが、 まるで映画の特殊映像のように見えたが、やがて焼けるような痛みが湧き出し、彼は苦痛 のうめきを漏らしながら崩れ落ちた。床に倒れようとする身体を男が支えた。 男の目が問いかけていた。憎しみを揺らめかせながら、何故かと問うていた。違うんだ、 と獄寺は掠れた声で囁いた。 「お前が死んで、俺がイタリアに行って幸せになるとか、違うんだよ。十代目が不幸にな るとか、それだけじゃなくて、違うんだよ。…お前を殺して幸せになる気なんかねえし、 裏切るなんて真っ平ごめんだ。なんか違うんだよ。違うだろうが、幸せになるって、こう いうことじゃねえんだよ」 霞む目が沢田の姿を探した。 「俺は、十代目が生きていれば幸せだった。俺が死のうと、それでよかった。そしたら、 俺が生きてることが、この十年、十代目を幸せにしたって言うんだぜ。……急に、生きて いるのが怖くなった。いつ死ぬのも怖くなかったのに、俺は……」 十代目、と獄寺が絶え絶えの息で呼んだ。もうリボーンは制止しはしなかった。沢田は 獄寺の元に駆け寄った。 「獄寺くん…」 呼びかけると、何とか焦点のあった瞳が沢田を見た。沢田の姿を捉えた瞬間に、その目 からは涙が溢れ出した。 「すみません、十代目…」 沢田は首を振る。獄寺はもう一度、すみません、と繰り返すと、顔をくしゃくしゃに歪 めた。 「すみません…、俺は十代目を愛してるのと同じくらい、俺が死ぬのと同じくらい、こい つが死ぬのも怖いんです」 獄寺くん、と沢田は涙で喉を詰まらせながら囁いた。 こつこつと冷たい足音を立ててリボーンが歩み寄ってきた。リボーンは男の傍らに立つ と、帽子の下から冷たい目で見下ろした。 「判定をしろ。獄寺がボンゴレに帰ることは善しか、否か」 男は静かに獄寺の身体から手を離した。そして沢田の方へ向き直ると、跪き、一言、不 明瞭な発音で「合格です」と言った。 次の瞬間、獄寺くん、と沢田が抱きついてきて、おかえり、と言い、それから帽子に隠 れたリボーンの笑みや、山本の笑顔が霞がかる視界の中に現れ、十年ぶりに見るその笑顔 が何とも憎たらしくて、てめえ山本、と言ったつもりだが、舌がうまく動かない。 最後に見たのは茶色い瞳の微笑だった。男は遠くから手を振った。 「アスタ・ルエゴ!」 初めて聞いた男の声は、発音も下手で、声も大きすぎる。しかし低く、優しい声だった。 また会う日まで。 本当に? もう弾くことがないと思っていたピアノを、また弾き出したように。もう会 うことはないと思っていた沢田と、また出会えたように。きっと戻れないと考えていたイ タリアに、また帰ることができるように。また、会えるのだろうか。 「うん、きっと。きっとね」 沢田の声が聞こえる。あたたかな手のひらが触れている。 「十代目…」 獄寺は強張った手をぎこちなく伸ばすと、そっとそのあたたかい手のひらに添わせた。 「全て、あなたに捧げます」
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