第4章覚醒は定時に沢田の身体に訪れた。表面に感じる冷気。ほんの少し凍えた肌。沢田は瞼 を開く。部屋は暗い。天井の古い電球は点いたままだったが、それが一層暗さを助長して 見えた。沢田は音もなく身体を起こした。 明かりを消すと早朝の薄暗がりが訪れる。カーテンがかすかな光を孕み、部屋の中には 青い闇が漂っている。しかし沢田の視界はさっきより数段晴れた。埃くさい空気が、人工 の明かりを消したことで澄んだように感じた。静まり返ったプールのような青い闇の中、 沢田は首を巡らせた。そしてどこにも時計がないことを知る。が、きっと六時前だろう。 肌を包む早朝の気配。闇の色。カーテンがわずかに孕んだ光。そしてイタリアで自分が目 覚める時間。 沢田はベッドの端に腰掛けた。獄寺の身体は、それまで沢田が横たわっていた方を向き、 まるで死体のように硬直したまま眠っていた。裸の肩、裸の背中、裸の足。沢田はそっと 獄寺の肩に手を触れる。それは芯まで冷えていた。しかし、沢田の手が触れても起きよう としなかった。こんなにも不感症になってしまった肌、と沢田は手を滑らせ、獄寺の肩を 撫でる。朝の訪れも、人肌の感触も遥か遠くに拒絶してしまった肌。今銃口を押し付けら れても、そのまま撃たれても、獄寺は気づきもせず死んでしまうのではないか。この肌は、 それを望んでいるのではないか。 身支度を整えている間も獄寺は目を覚まさなかった。テーブルの上に投げ出していたス ーツを手に取る時、あの写真立てを床に落としてしまったのだが、それでも目覚めなかっ た。沢田は苦笑して獄寺の寝顔を覗き込んだ。濃く残った夜の影の中で、眉間に皺を寄せ、 地獄の階層を下る道の只中でもっと苦悶を求めるような顔だった。沢田は灰色の長い髪を 掻き分け、こめかみに口づけを一つ残して、部屋を後にした。 扉の外には山本が立っていた。彼は扉を背にじっと棒立ちしていた。沢田が歩き出すと、 黙ってその後ろに従った。アパートを出ると、いつの間にかリボーンも合流していた。リ ボーンが隣に、山本が背後に、三人はまだ目覚めきらない街路を黙々と歩いた。街灯も消 え、しかし空はまだ明けきらず早朝の気が青白く漂う。 不意に一歩、リボーンが近づいた。 「俺はこれ以上譲歩しねえ」 夜の余韻のような暗い囁きが耳に滑り込んだ。沢田は軽く表情を緩めた。 「いいよ。その条件を呑む」 言うだけ言ったとばかりにリボーンは歩調を速め沢田の先を行く。山本が後ろから追い つき、沢田に耳打ちした。 「条件?」 沢田は山本の訝しげな表情を見上げた。 「入ファミリー試験だよ。山本も中学の時、受けたろ」 「そりゃ…」 「リボーンが一番反対してると思った?」 山本は視線を逸らし、黙って肩に担いだバットのケースを揺らす。沢田も山本から目を 逸らし、目の前を歩く黒い背中に視線をやった。 「十年前から、獄寺くんのことを一番信じてたのはリボーンなんだよ。俺よりも」 小さな呟きを最後に、三人は再び沈黙した。 急にリボーンの足が止まった。沢田が立ち止まると、その姿を隠すように立ちはだかり、 懐に手を入れる。隣で山本の息を飲むのが聞こえた。 街路の真ん中に、男は、沢田達を待っていたかのように佇んでいた。それほど若い男で もない。短く刈った黒髪の下で茶色の目がひたすら、こっちを凝視している。 沢田は手を伸ばし、軽くリボーンの身体を押し退けた。リボーンの目は警戒を怠ってい なかったが、しかし素直にボスに従う。沢田は二歩、三歩と前に出、佇む男を見つめ返し た。それは対峙というより、鏡合わせの像が無表情に己自身の視線を受け止め、返してい るようだった。 やおら、沢田の頬に笑みが浮かんだ。 「行こう」 沢田は二人に声をかけると、歩き出した。リボーンが懐から手を抜く。山本は下ろしか けたバットのケースを担ぎなおした。沢田が横をすれ違っても、男は微動だにしなかった。 一瞥することさえしなかった。 路地には男一人が残された。空に夜の名残りは失われつつあった。白く、己が色を決め かねていた空が、パッと鮮やかな青に染まる。朝日が昇ったのだ。途端に路地はビルの黒 い影に落ちた。朝日の眩しい空から見下ろす影は濃く、そこに男がまた佇んでいるのか、 見分けることは出来なかった。 * 低く腹が震える。強い振動が足元から響いてくる。獄寺が渋々といったていで目を覚ま すと、昨夜獄寺の金でさんざ飲み食いした男が楽しそうに床を踏みしめていた。部屋は明 るい。黄色のカーテンが光を浴びて光っている。獄寺は、うるさい、と身振りで示し再び 眠りに落ちようとしたが、ギョッとして目覚めた。彼は手のひらでベッドの上をまさぐっ た。 視界の端で、ちらちらと手のひらが踊る。手のひらの主を見上げると、男が、何だ?と いった調子で首を傾げていた。獄寺はベッドの上を見下ろした。横たわっていたのは、彼 自身の身体だけだった。部屋を見回すが、昨夜と何ら変わりはない。床の上に散らばった シャツ。ゴミ箱に突っ込まれたシーツ。 獄寺は立ち上がり、ふらふらと部屋の中を歩き出した。ゴミ箱に汚れたシーツが突っ込 んである。脱ぎ散らかされ、姿見を覆っているスーツ。それを剥ぎ取ると、自分の素裸が 映る。振り返ると不思議そうな顔で佇む男、その傍らに、ありったけのタオルを敷き詰め たベッド。 ドン、ドン、と男が床を踏み鳴らした。獄寺が初めて気づいたかのような顔を上げると、 男は呆れと苛立ちを隠さず、少々乱暴な手つきで、話し、仕事、と言った。獄寺はなんと なく頷き洗面台に向かったが、顔を洗っている間もなかなか目は覚めなかった。男は勝手 に冷蔵庫の中を覗いている。 タオルもなく、顔から水を滴らせる獄寺に、男は黄色のタブレットと水を差し出した。 いつも酒が残る朝に飲むサプリメントだ。それを四粒一気に飲み干し、食道をごつごつし た塊が水と一緒に胃へ落ちる感触に、ようやく日常めいたものが蘇ってきた。獄寺はスー ツを羽織り、眼帯をつけ、靴を履こうとした。その時だった、彼が足に巻かれた包帯に気 づいたのは。昨日、久しぶりにした怪我。ガラス片を踏み、傷つけた足の裏。もう痛くな い。清潔な包帯が巻かれている。 行くぞ、と男が玄関の扉を開いた。獄寺は揺らぐ心のまま部屋を見回し、テーブルに腕 をついた。テーブルの上には写真立てが伏せられている。彼は恐ろしいものを見るように、 そっとそれを返した。 写真はなかった。 今度は乱暴なノックだった。獄寺はその小さな写真立てをポケットに押し込むと、男に 促され部屋を出た。 男の不機嫌の半分は空腹に起因していたものらしく、皿を二つ空にした男は獄寺を指差 してぼさぼさの髪を笑った。長い灰色の髪は、寝癖でひどい有様だった。獄寺は男の笑い を無視し、遅い朝食をがつがつと貪った。 店はちっとも繁盛していなかった。カウンターの中の店主は手持ち無沙汰そうにグラス を磨くが、客は獄寺と男以外、石のように押し黙った老人達ばかりで、誰もが皆グラスに 注がれたたった一杯の酒を見つめていた。皆、常連だ。ラジオさえ、その憂い空気に影響 されたかのように、似合わぬシャンソンを流していた。高い音の割れる、古いラジオだっ た。 獄寺が食事を終えても、男の話し出す様子はなかった。ただの水を何杯もあおりながら、 聞こえないシャンソンに耳を傾けている。とうとう獄寺がテーブルの脚を蹴ると、ラジオ から獄寺の方へ向き直った。 仕事、と獄寺は見よう見真似で覚えた手の形を作ってみせた。すると男は微笑した。目 尻が下がる。獄寺は右目が痙攣するような気がした。急に目の前の男が知らない人間に見 えた。そうだ、こんな顔をする奴を、俺は人生で見たことがない。知らない男と五年を過 ごし、仕事を共にし、ピアノを弾いて聞かせたのだろうかと、獄寺は急に無音の空隙に落 ち込んだような心もとなさに襲われた。 お前、と男の手が動いた。真っ直ぐ獄寺を指差している。獄寺の目が覚める。男の目尻 は下がっていない。男の手は続ける。来た、ここ、覚えてる、? 獄寺が返事をしないと、 更に続けた。覚えてる、お前、俺、会った、初めて、五年、前、覚えてる、? 咄嗟に、覚えてるもんか、と獄寺は手を振った。しかしその時の記憶は思い出そうとす れば簡単に浮かび上がってきた。手を振り、首を垂れながら獄寺は思い出した。汚れたテ ーブルの上に、その時の光景が浮かんできた。 夜だ。カードの勝負でチンピラから金を巻き上げようとして、逆に仲間を連れてきたチ ンピラに追いかけられていた。闇雲に走るうちに、マクドナルドの電飾の明かりさえ届か ぬ路地にいた。逃げ込んだ酒場が、どうも柄の良い所ではないことはすぐに分かった。目 の前のこの男がすぐに近づいてきて、獄寺を追い出そうとした。が、獄寺は男の襟首を掴 み、ピアニストだ、と叫んでみせた。男の眉が吊り上ると、獄寺はタンゴショーの終わっ た舞台を指差し、怒鳴った。仕事だ! そして男を押し退け、ピアノに近づくと出鱈目に 鍵盤を叩いてみせた。あちこちから笑い声が上がった。嘲笑が、獄寺が男につまみ出され るのを待っていた。しかしいつまで経っても男は獄寺を追い出そうとしなかった。曲はい つの間にか崩れたバッハになっていた。ベートーヴェンを経てショパンに辿り着いた時、 客席の笑い声は静まっていた。店はいつの間にか、平生の雰囲気を取り戻していた。男た ちが談笑し、女はその肩にしなだれ、用心棒は入り口を固める。閉店後、獄寺は横に並べ た椅子をベッドに眠った。男は最後まで、獄寺を追い出さなかった。 出たい、か? 男の手が言った。獄寺は聞き返すように顔を歪める。すると男は一つ一つ手の動きを強 調しながら尋ねた。 ここ、出、たい、か? 獄寺がまた手を振ろうとすると、男はそれを押しとどめ早口に手を動かした。何を言っ ているのか全く分からないが、その剣幕が獄寺の気に障った。一方的に責められているよ うだった。 「分かるかよ!」 店に響く怒鳴り声にカウンターの店主も、俯いていた老人達も顔を上げた。 「紙に書け、紙に!」 懐を探るが何もない。カウンターに向かって紙とペンだ、と叫ぶ下で、男は懐から取り 出したペンで紙ナプキンに文字を書き殴っていた。 書き終えると男は手のひらでそれをテーブルに叩きつけた。獄寺はそれを手に取り、ど っかと椅子に腰を下ろす。怯えた目が幾つも自分を見つめていたが、睨み返すと誰も俯い てしまった。獄寺はようやく紙ナプキンに書かれた言葉に目を通した。 一読して男の顔を見返し、再読。込み上げてくる笑いを飲み込む。 「こんな冗談が言えたのか?」 男はじっと獄寺の唇を読んでいる。 獄寺は紙ナプキンを男の目の前でぴらぴらと振って見せた。 「男相手にプロポーズかよ。いい趣味してんな」 沈黙の姿勢を保ったまま、男は人差し指ですっと獄寺の胸を指差した。下らねえ、と獄 寺は呟いた。そして男の表情が崩れるのを待ったが、相手は石のように頑ななまま獄寺の 返事を待っていた。業を煮やした獄寺は、とうとう自分の胸を叩いてみせた。 「俺が、俺のピアノが、お前のもの?」 男は静かに一つ頷く。 「ふざけるな、俺は……」 しかしその先が続かなかった。ポケットの中の写真立て。昨夜の出来事。朝になると沢 田の姿は消えていた。連れて行く、と言った沢田の言葉。あれが本当の出来事だったのか。 しかし獄寺の胸の中には、十代目、と呼んだあの痛みが残っていた。死にたくなるような 痛みがずっと続いている。 男の指が一葉の紙片を差し出した。それが何かは勿論すぐに分かった。獄寺の伸ばした 手を男は払った。獄寺の見上げた男の顔は笑っていた。穏やかで優しく、邪気のない笑顔。 出さ、ない。 男の手は言った。 お前、ピアノ、渡さない、この男に、渡さない、絶対。 死んでも。 男の指が写真を真っ二つに破る。沢田の笑顔が引き裂かれる。引き裂かれた写真の向こ うで男は笑っている。その笑顔は穏やかで優しく、写真の中の沢田のそれに、似ていた。 明暗 |