第3章




 蛾が羽を叩く小さな音だけが、部屋に降る唯一の音だった。時計の音さえない。この部
屋には時計がない。時間が分からない。どれほど時間が経ったのか、どれほども経ってい
ないのか。分かるのは夜ということだけ。暑く、埃っぽく、ざらついた、寝苦しい夜。
 しかし黄色いカーテンの部屋に押し込められた二人には眠りも、安らぎさえ遠いものだ
った。獄寺は、この十年間の妄想の亡霊が顕現したかのように驚愕に打ちのめされ、動け
ないでいた。呼吸はわずかに、だらしなく開いた口の端を生ぬるく行き来するばかりで、
もう幾許か待てば心臓の動かし方さえ忘れてしまうかに見えた。否、そもそも十年前のあ
の日から、獄寺は正常な心臓の動かし方など忘れてしまっていたのだ。それが今、突如、
あばらの内から強く叩き、そのあまりの衝撃に、あまりの血流に、彼はもう気絶寸前だっ
た。
 不意に、沢田の身体がスローモーションのように傾いだ。彼はそのままベッドの上、獄
寺の傍らに小さく蹲った。獄寺は息を止めたまま何も出来ず、今まで沢田の頭のあった位
置を凝視していた。電球が蛾の羽に遮られ、瞬いていた。
 あれを…、とくぐもった声がシーツに押し付けられる。ハッとして傍らを見下ろすと、
黒いシャツの背中。両腕で抱えるように伏せられた顔。
「あれ、追っ払って」
 獄寺は電灯を見上げた。羽の大きな蛾。茶色に、目玉のような白の斑紋。
 沢田の言葉に操られるかのように獄寺は立ち上がった。床の上のシャツを拾い上げ、執
拗に電球にまとわりつく羽虫を追い払う。窓は錆びついていて、もう開かなくなっていた。
獄寺は玄関から蛾を追い出し、ようやくシャツを掴んだ腕を垂れた。
 扉の閉まる音に、ごそごそと沢田が身体を起こした。しかしベッドに両腕を突いたまま
項垂れ、顔を上げない。獄寺もシャツを手にぶら下げたまま、途方にくれて玄関の側から
動けなかった。天井からは細かな埃が雪のように降り注いでいた。獄寺が振り回したシャ
ツが、天井や電球や壁や、部屋の中に沈殿していたものを掻き回し、自らの上に、そして
沢田の上に降らせる。
 黒いシャツの背中に白く降り積もった埃を見た瞬間、獄寺はその場に土下座をしていた。
「沢田さん……!」
 埃くさい空気に水気を奪われ、からからの喉から彼はその名を搾り出した。
 が、ベッドの上の男は自分の名前が呼ばれたことにも頓着せず立ち上がると、疲れたよ
うな足取りで隅の洗面台に向かった。
 鏡に、逆光の中、少し暗い沢田の表情が映っていた。憂鬱で、考え事に疲れたという表
情だった。
 洗面台の上には安いプラスチックのコップと、歯ブラシと、もうほとんど中身の残って
いない練り歯磨きのチューブが転がっていた。排水溝には髪の毛が何本も落ちていた。沢
田はちょっと悩んだ様子で歯ブラシを手に取ると、チューブを強く握り潰し練り歯磨きを
取った。
「獄寺くん」
 沢田は振り向き、獄寺に歯ブラシを差し出した。獄寺が顔を上げられず土下座のポーズ
のまま固まっていると、小さく溜息をつく。沢田は獄寺に無理やり歯ブラシを握らせた。
獄寺は固く目を瞑り、それが与えられた相応なる罰であるかのように歯を磨いた。その懸
命さは滑稽なほどだったが、沢田はそれを見なかった。彼はマウスウォッシュを口に含み、
うがいをしていた。マウスウォッシュは水色で、いかにも合成着色の風に見えた。味はミ
ントとボトルに書かれていたが、しつこい味が舌の上や歯の裏側に粘りつくようだった。
沢田は水色の液体を吐き出し、プラスチックのコップにぬるい水を汲んで、もう一度うが
いをした。その間も獄寺は、懸命に歯磨きをしていた。
 自分もうがいをした獄寺が顔を上げると、鏡に沢田が映っていた。沢田は獄寺の後ろに
立ち、獄寺がうがいをする様子を見つめていた。その目に表情はなく、じっと冷静な観察
をしているように見えた。獄寺は目を伏せた。左目の瞼が、わずかに痙攣した。
 獄寺は沢田を振り向いた。どう声をかければ正しい行いが出来るかなど、想像もつかな
かったが沢田に背を向けてばかりいることが出来なかった。しかし振り向いた途端に彼の
視界は暗くなった。獄寺の腕は、本能と鍛えられた勘に操られ、彼の意志に関係なく相手
を押し退けようとした。が、それは出来ることではなかった。沢田の手は、獄寺の両腕を
封じてしまっていた。足元が浮つき、腰が洗面台に乗る格好になる。後頭部が鏡にぶつか
り硬い音を立てた。しかし、そのどれも現実感のあるものではなかった。今まさに重ねら
れ、領土を蹂躙するがごとく貪られる唇も、あまり現実のものには感じられなかった。そ
れが沢田のものであれば、尚のことだった。
 十年間の亡霊、それとも十年前の亡霊だろうか。マフィアでありながら、日本で十代を
謳歌していた自分は沢田を敬愛し、沢田以上に至上のものを持たなかったけれども、彼を
汚すことを覚えてしまったのは、いつだ。日本で? それとも蒸し暑い船上の生活で。騙
すために寝た女の腹の上で。アルゼンチンで。ブエノスアイレスでピアノを弾き疲れて眠
った夜に?
 十年分の罪科が目の前に、この世で唯一神聖なものの姿をとって現れた。亡霊は今や処
刑人に姿を変え、口づけは焼印のコテのように熱かった。ようやく唇が離れたのは獄寺が
拒絶したからではなく、まず第一の仕事を処刑人が完了させたからだった。沢田は舌から
垂れる唾液の糸を、親指で拭った。
「こうしようと思ってたんだ」
 まるで冷静な、落ち着いた暗い声で沢田は言った。
「獄寺くんを見つけたらまずこうしようって、決めてた」
 急に獄寺の身体は、両手で肩を掴まれ鏡に叩きつけられた。
 目の前に、またさっきの嗤っているともつかない奇妙に歪んだ沢田の顔があった。その
目は、困ったように歪んでいるのに、奥では怒りが燃えているかのように光っていた。獄
寺は、朦朧とその名を呼ぶことしか出来なかった。
「どうして…、沢田さん……」
「どうして? 何が聞きたい? どうやってここに来たか? この十年何があったか? 
聞きたいならいいよ、聞かせてやる。大西洋をファーストクラスで越えてきたんだ。専用
セスナじゃないぜ。偽名とパスポート、それに大事な部下を二人も連れてさ。知ってる?
俺はもうボンゴレファミリーの十代目ボスなんだよ」
 沢田の名前を呼ぼうと獄寺は口をぱくぱくさせた。しかし乾いた口から漏れるのは辛う
じて呼吸のみだった。構わず沢田は続ける。
「タクシーを無理やり降りて逃げ出したんだ。あの記念碑みたいなのの立ったさ、ばかで
かい通りの信号待ちに。部下を撒いて、一人で会いにきたんだよ。感動的だろ? それか
ら何? 君がいなくなってから何があったかって? 黒曜中って知ってる? そいつらが
襲ってきてね。ランチアとか、六道骸とか、憑依弾とかさ。それからハーフボンゴレリン
グだ。親父に、バジルに……守護者!」
 沢田は急に激昂し、獄寺の胸に拳を押しつけた。
「知りたい? 何があったかを知りたいか? リボーンは何があったかを十年間黙ってた。
リボーンだけじゃない、ディーノさんも、親父も、ビアンキも! 君が嫌ってたDr.シ
ャマル、あの女好きが男を心配するなんて珍しいよ、百年に一度も見れるもんじゃない。
信じられる? 山本まで知ってたんだよ。俺は馬鹿みたいに、信じてた。時々、送られて
くる写真の入り絵葉書を見て、君はイタリアで元気にしてるんだって馬鹿みたいに信じて
たんだ。それを書いたのが誰か教えてやろうか…」
「沢田さん! もう…」
 もう…、その後は続かなかった。獄寺は自分がみっともなく泣いていることに気づかな
かった。目の縁が赤く染まり、涙腺は壊れてしまったかのようにただただ涙を溢れさせて
いた。壊れてしまった水道のようだった。
「…俺はね」
 柔らかく、沢田が言った。憑き物が落ちたように、急に穏やかになり全ての昂ぶりが影
を潜めた。柔らかな口調で、静かな声で、沢田は言った。
「獄寺くんが助けにくるような気さえしてたんだ」
「あ…」
 目も、さっきまでの激しさが消え穏やかだった。穏やかに獄寺と視線を交わしながら、
指だけで獄寺の足に触れた。ひやりとした指が触れた瞬間、獄寺は自分の身体が勝手に起
こす反応を止めることが出来なかった。
 沢田は柔らかに続けた。
「君がいなくなって、俺は君が怖くなくなった。近くにいたときは、ほんと、疫病神かっ
てくらいにトラブルは運んでくるし、運んでこなくても起こすし、俺の言うこと分かって
ないし、怖いし。でも、いなくなってちっとも怖くなくなった。寂しくて、君はずっと出
会ったときから友達だったみたいに思えた」
 沢田の言葉を聞きながら、獄寺は困惑し、されるがままにされていた。ひやりとした指
が直に自分に触れ、撫で、さすり、セックスという行為そのものに昂ぶらせるのを受け入
れるしかなかった。しかし身体とは切り離されるかのように、彼の心は沢田の言葉に没入
していた。やがて隔てられていた心の昂ぶりも肉体のそれも別はなくなり、彼は涙を流し
ながら沢田の肩にしがみついた。
「会えるのが楽しみだった。イタリアに行くのも怖くなくなった。あれだけ俺のことを好
きでいてくれたんだもん、きっと俺のピンチを放っとかないって。ありがた迷惑なくらい
俺に尽くそうとしてくれたんだもん、駆けつけて助けてくれるんじゃないかって。甘えて
た訳じゃないけど、そう思うと頑張れた。俺がボスにならなきゃ、俺が強くならなきゃ仲
間を助けられない、何より君に会いにいけない。だから、ずっとずっと信じてたし、皆も
黙ってた。獄寺くんは生きてるって、俺は思ってた。いつの間にか、俺、獄寺くんが好き
になってたよ」
 指に力が加えられた。獄寺は目を見開いた。目の前に沢田のうなじがあった。汗の匂い。
獄寺くん、とその声はすぐ耳の側で囁かれた。
「俺のこと、好き?」
 その瞬間に全ての堤防は決壊した。溢れ出すものを止める術はこの世には皆無だった。
獄寺は涙に濡れた頬を沢田の肩に擦りつけ、喘いだ。沢田は冷徹なほど優しく手の中のも
のを握り締めながら、更に囁いた。
「今でも、好き?」
「十代目……」
 とうとう、かつてこの男に仕える者だった時と同じように、獄寺は彼を呼んだ。この十
年間、禁じてきた呼び方。既にボンゴレファミリーの者でなく、それどころか彼を裏切っ
たとされる者が呼んではならないと、胸の奥に秘め続けた呼び名。
「十代目…」
 それまで頑なに獄寺の腕を拘束していた手が解け、優しく背中を抱いた。
「殺してください、十代目…」
 獄寺の口をついて出た言葉にも、その腕は動揺しなかった。柔らかく背中を抱き、弛緩
した身体を自分の方に押しつけようとしていた。
 が、獄寺は繰り返した。ただただ繰り返した。
「殺してください…」


 シャワールームのタイルは冷えていた。冷たい雫がシャワーの先から垂れていた。獄寺
はタイルの壁に額を押しつけると、まだ感覚の戻らない手でコックを回した。すぐに冷た
い水が溢れ出して、獄寺を頭から爪先までずぶ濡れにした。
 先にシャワーを浴びた沢田の裸はほっそりとして白く光り、子供の頃散策した城の周り
の森の若木のようにしなやかだった。沢田は滴る水を拭わず、獄寺とすれ違った。シャワ
ールームの扉を閉める直前、ベッドの汚れたシーツを勢いよく剥がす姿が見えた。
 冷たい水に打たれながらも、沢田に触れられた部分はまだ熱を持っているように感じら
れた。獄寺は久しく触れることのなかったそれに手を伸ばし、触れてみたが、途端にそれ
は冷たい肉塊となって項垂れた。
 獄寺は長いこと冷水に打たれていた。そのまま天が自分を塩の柱にでも変えてくれるの
を待っているかのようだったが、決してそのような瞬間は来なかった。
 沢田と同じように水を滴らせながらシャワールームを出ると、裸のベッドマットにあり
ったけのタオルを敷き詰めた沢田が顔を上げた。沢田はほとんどリラックスしていて、そ
れは彼の姿にも表れていた。彼は素裸のままだった。
 獄寺はクロゼットではない場所を探した。ようやく見つけ出した薄汚れた紙袋の中には、
一度も袖を通していない新品のシャツが入っていた。獄寺がそれを手にすると、沢田はご
く当たり前のように背を向け、軽く片腕を伸ばした。獄寺はもう何十年もかしずく使用人
のように手馴れた動作で、それを沢田に着せた。
 袖がわずかに余っているのを見て、沢田が微笑を漏らした。微苦笑にも近い。当然のご
とく背も伸びて、体格も変わった。しかし獄寺の身体はそれ以上に変化していた。今も肌
に残る日焼けの名残り。敗走を重ねた背中の傷。沢田が長く伸びた髪に触れた。髪は水を
吸って重たく、指を通すとぎしぎしと軋んだ。
 沢田は獄寺を優しく押し倒した。彼は口づけするほどの距離で、獄寺の見えない左目を
覗き込んだ。獄寺自身も、鏡に映るそれをじっと観察したことがあった。眼球自体が白く
濁り、灰色の瞳は一層色が薄く、ガラス細工の失敗作のようだった。沢田の指は顔の探索
を終えると、髪の中にもぐっていった。そしてある一点で止まった。
 十年前、獄寺が最後に爆発させたダイナマイトのつけた傷がそこにはあった。それは火
傷痕というより少し抉れて、本当に直に頭蓋骨に触れてしまいそうな、そんな傷だった。
 沢田の身体が近づいた。音を立てず、柔らかく、ただ沢田はそこに唇を押し当てた。獄
寺の顔の上では胸が浅く呼吸に上下していた。
「君を」
 頭の中に直接吹き込むように沢田が言った。
「連れて行く」
 決めたんだ、と囁き、沢田は獄寺の頭を軽く抱き締めた。沢田の胸はあたたかかった。
獄寺は今にも我を失いそうな心臓の痛みを感じた。沢田の、絶え間なく打つ心臓の鼓動や、
やがて寝息へと変わった呼吸が今にも失われそうで、しかしいっそ失うなら早い方がいい
と彼は目を瞑った。
 何もかもが怖かった。自分が死んでいなかったことを、それどころか生きていることを
恐ろしく感じたのは久しぶりだった。それはまさに、今獄寺の頭を抱く沢田の笑顔を思い
出すたびに感じた恐怖だった。




共犯者の倫理







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