第2章




 空港に降り立った人影は一言、暑いな、と呟いた。
 窓の外では常夜灯が点々とアスファルトの地面を照らし、その下に日が暮れても働き続
ける人間の姿が蟻のように浮かび上がる。しかしガラスとコンクリートに覆われた建物の
中には空調のきいたやけに清潔な空気しか漂っていない。どこでも見慣れたような光景だ。
しかし、肌にははっきりとした違和を感じていた。こんな場所にいるのか。
 細い指がネクタイを緩めた。わずか斜め前に佇む男が振り返り、黒い中折れ帽の下から
鋭い視線を遣ったが、彼は気づかぬふりをした。ぐい、とネクタイを引き抜いてみせ、隣
の男に声をかける。しかし、この男は飛行機の中にいた頃からちっとも口を利かない。意
志の強そうなきりりとした眉の下で、軽く目を伏せている。
 どいつもこいつも。
 彼は小さな声で呟いた。それは奥歯ですり潰すような、いやに低い囁き声だった。

          *

 鍵盤に指を叩きつける。タンゴショーも、今宵最後の演目。ダンサーはヤクザ者の情婦
で、常に間男の嫌疑をかけられては男から殴られているが、化粧をほどこしタンゴを踊る
段になると別人に変化する。相手の男は、そんな女の事情を知っているが手出しの出来な
い臆病者だ。そんな二人が今宵も最後の曲を、まるで気の狂ったように踊る。
 しかし獄寺の指は機械のように正確に鍵盤を叩くだけ。ただそれを少々荒く、乱暴に落
としてみせるだけのこと。そうやって獄寺は情熱を偽る。
 拍手に迎えられながらダンサーは酒のある席へ下りてゆく。ヴァイオリンとバンドネオ
ン奏者もそれに続くように赤ワインを求め、早々に楽器を仕舞う。獄寺と、老いたバス奏
者だけが動かなかった。バスは尚も、軽く爪弾いた。獄寺はその音を聞いて、何となく記
憶にかかる音楽を探し出す。
 ホールにはかすかに崩れたバッハの奏でが流れていたが、客席の誰も肉と赤ワインに夢
中であり、耳を傾ける者はいなかった。
 ぽつりぽつりと明かりが消え、客の姿が消え、バス奏者の姿も見えなくなり、いつの間
にかホールには獄寺一人しか残っていない。それでも獄寺はピアノの前から離れなかった。
永遠に続くかのようなインベンションを、爪楊枝でタワーを積み上げ、積み上げては壊す
ような単調さで弾き続けた。
 鍵盤の上に札が落とされた。獄寺はようやく手を止め、顔を上げた。オーナーが身振り
でもう出て行ってくれ、と示した。獄寺は鍵盤の上に散らばった赤い肖像の紙幣を無造作
に懐に突っ込み、ピアノから離れた。オーナーの視線が自分の背中を舐めているのは知っ
ていたが、不愉快を起こすのも面倒で、そのままホールを出た。
 通りは原色のネオンが光り輝き眩しかった。獄寺は右目を細めたが、人の流れに混じる
と無気力に流されるまま歩いた。気づけば最も賑わうフロリダ通りの交差点に差し掛かっ
ていた。その時になってようやく、方向を間違えたな、と思ったが、もう何もかも憂い。
煙草を取り出そうと懐に手を突っ込むと、ぐしゃりとペソ札の潰れるのが分かった。
 わずかに歩調が周囲とずれる。何人かと肩がぶつかり、獄寺はおとなしく通りの端に追
いやられた。煙草はなかった。
 また人波に呑まれ適当に彷徨うかとした先に、肩を掴まれた。
「…よう」
 低く挨拶で返したが、相手に届くことはない。
 昼間、ソナタ・ワルトシュタインをリクエストした男は茶色い瞳でたしなめるように獄
寺を見ていた。その目がネオンの光を受けてやたら光っていたので、獄寺は男の瞳から目
を逸らし指を二本立ててみせて、口元に近づけた。男は獄寺の求めるままに煙草と火を差
し出した。
 男に促されながら、獄寺はようやく住み慣れた裏通りへ歩き始める。男の腕が軽く背中
を押す。それが別段不愉快ではなかった。獄寺は右目の瞼さえ軽く閉じ、ゆらゆらと、ネ
オンの光の届かない暗い世界へ帰ってゆく。


 懐のペソ札を全て酒に変え、男にも振舞っている内、また胸の奥から気持ちの悪い塊が
せり上がってくるのが分かった。獄寺は席を立った。男が心配そうに肩に触れようとした
が、それを払い、一人で裏に回る。
 どこもそうだが、便所はひどく不潔だ。獄寺は壁に両腕を突くと、せり上がってきたも
のを一気に吐き出した。吐瀉物が便座を汚したが、獄寺は足でペダルを踏んで水を流した
ままそれを省みなかった。省みる必要がないほど、この便所は汚れている。
 手洗い場の曇った鏡に映る亡霊のような顔に手を振ると、相手は自分を馬鹿にするよう
ににやりと笑った。馬鹿らしい。拳で殴りつけ、手も洗わず便所を後にする。
 席に戻ると、男が世話をやいて、タオルを持ってこさせるやら氷を持ってこさせるやら
で、右手は不恰好なぐるぐる巻きにされる。仕方なしに、その後は左手でグラスを持ち、
男にワインを注がせた。男は手でバツ印を作ってみせるが、なら明日からピアノを弾かな
いまでだ、と左手で歪む文字で脅したら素直に注いでくれた。獄寺は笑うふりをしてワイ
ンをあおる。男は獄寺に突きつけられた脅しのメモを丸めて捨てた。
 天井で明かりが明滅した。また停電かもしれない。この街ではよくあることだ。獄寺は
自分から右目を閉じて、闇の中にアルコールを流し込む。闇の中で目が揺れていた。いつ
もの二日酔いの予感。が、いつものことだ。退屈なほどに。
 次に明かりがついたとき、向かいで飲んでいたはずの男の手は沈黙してしまっていた。
いつもその手は、獄寺に半分も通じない手話で始終お喋りをしているのだが。獄寺は、左
手で男にワインを注ごうとして失敗する。ワインはテーブルの上にこぼれだし、グラスは
空のまま、その透明な側面にワインの滝を映し出す。
「いけないな」
 男が言った。おや、と思う前にボトルを持つ腕を取られる。
「もうやめときなよ。飲みすぎだ」
 聞き慣れた声だった。そうか、こいつの声はこんな声だったか。五年付き合ってきた割
に、今まで気づかなかったもんだ。
 獄寺は男に支えられて立ち上がる。暗い裏路地は、既に獄寺にとって茫漠とした闇でし
かなかった。男は慣れた足取りで歩く。獄寺の足がもつれて躓きそうになると、苦笑して
いるようだった。
 見慣れた建物や、見慣れた壁が目につくようになる。石畳の路地の一角を、ぽつんと無
意味に照らす街灯。獄寺は自分を支える男の腕を払いのけた。流石に家にまで送り届けら
れるのは気分がよくなかった。
 ふらつきを、壁に手をつくことで抑えながら歩く。男は立ち止まったまま、獄寺の後姿
を見送っている。街灯の下で、獄寺は懐に手を入れた。手の中は空だった。掴み出せるも
のは煙草も、ペソ札もなかった。
 獄寺は男に向かって、指を二本振ってみせた。
「…なに?」
 闇の中から男が尋ねる。
 獄寺は苛立たしくなり、もう一度指を振りながら乱暴に答えた。
「煙草だ」
 低く笑う声が聞こえた。
 乾いた足音が緩慢な速度で近づいてきた。黒いシャツの腕が伸びる。その指先にあるも
のを確かめもせず唇にくわえると、いいのか、とからかうような声。よく見れば口にくわ
えているのは葉巻だった。
「偉くなったもんだな」
 苦々しく言い捨て、獄寺は葉巻の端を噛み切った。ジッポーの火がゆらゆらと近づく。
それはいつもより、些か低い位置にあった。獄寺は壁に手をついたまま、少し背を丸めた。
 男の顔はジッポーの火に照らされ、目の前にあった。
「…冗談は…」
 葉巻が石畳の上に転がり落ちた。
「やめろ…」
 声が掠れた。
 胸の奥から得体の知れないものが込み上げてくる。震える腕はそれ以上、獄寺を支えな
かった。膝が崩れ落ち、獄寺は跪いたまま手で強く口を覆った。
「俺を…」
 指の隙間からくぐもった声を漏らす。視線を上げることが出来ない。指がみっともなく
震えている。身体中が言うことを聞かない。
「殺しに……」
「だから言ったろ、飲みすぎだって」
 男は、ほとんど腰を抜かしている獄寺の身体を何とか立たせると、引き摺るように歩き
出した。
「戻すのは、もう少し待ってくれよ」
 街灯の下で、茶色い瞳が笑った。


 部屋に戻るなり、獄寺はもつれる足で便所に飛び込み腹の中のものを全て吐き出した。
床の上に倒れそうになりながら、呆然と流れる水の音を聞く。
 大丈夫、とドアをノックする音。返事を出来ないでいると、ドアが開いて、上から見下
ろす男が眉を寄せる。
「あーあ、汚して。着替えあるの?」
 男は獄寺を便所から引き摺り出すと、シャツもズボンも、汚れたものを全て無理やり脱
がせ、クロゼットの中をあさった。
「着替え、ないし。でも平気か。暑いもんな、ここ」
 床の上のあちこちに落ちているシャツを靴のつま先で弄りながら、男は独り言のように
言った。獄寺の口からは、あ…、と返事にもならない声が漏れた。そのまま、また床の上
に崩れ落ちそうになる獄寺を、男はベッドの上に座らせると、ぶらぶらと部屋の中を物色
し始めた。
 天井の、切れかけた電球が、暗く男の顔を照らしていた。案外淡い茶色の髪は、癖毛な
のか、毛先がつんつんと跳ねている。茶色い瞳は、無邪気ではなかったが、楽しそうに面
白そうに笑っていた。
 男はテーブルの上に伏せられた写真立てに気づいた。それを引っくり返すと、男の表情
が不意に能面のように静まった。細い指が、懐から葉巻を取り出す。カッターの使い方も
慣れたもの、深く煙を吸い、長く長く息を吐く。
「さ…」
 喉が引き攣るように痛んだ。この名前を呼べば、途端に死んでしまうかのような痛みだ
った。獄寺は強く目を瞑った。シーツを握り締め、声の限りを振り絞って、呼ぶ。
「…さわだ、さん」
 男は獄寺を振り向かなかった。わずかに伏し目になりながら写真を静かに凝視している。
 やがて、写真立てを伏せる硬い音が聞こえた。
 軋む床を踏んで、男が近づいてきた。獄寺は恐る恐る瞼を開き、近づいてきた男の顔を
見上げた。今にも消えそうな照明の、暗い光の下、その表情が見える前に、獄寺の身体は
押し倒されていた。
 右手の持つ葉巻の火が、見下ろしていた。それはゆっくり眼帯の上に下りてくると、急
な速さで獄寺の耳を掠めてシーツの上に強く押しつけられた。古い布の焦げる匂いと煙草
の匂いが鼻を掠める。
「知らなかった」
 乾いた小さな呟きが胸の上に落ちた。
 柔らかい手が、意外なほどの優しさで眼帯を外した。
「獄寺くんが死んでるなんて、知らなかった」
「さ……」
「まさか、死んでるなんてなあ…」
 ぶん、と低い音でうなって電球が元の明かりを取り戻した。どこから入り込んだのか、
蛾が一匹、光に誘われるようにふらふらと電球に近づき、大きな羽で電球を遮り明滅させ
た。獄寺の上にのしかかった身体は、脱力したようにゆらりと持ち上がった。
 影の中、沢田の顔は奇妙に歪んで、泣いているとも、嗤っているともつかなかった。




届けられる私はかくして







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