第1章




 目覚めた時、外は真昼だった。強烈な二日酔いの気配が腹の奥から湧き上がり、獄寺は
思わず起こしかけた身体を、もう一度ゆっくりとベッドに横たえた。目がごろごろと音を
立てそうに揺れる。遥か遠く離れた窓にかかったカーテンの黄色が気持ち悪い。重たい腕
を引き摺り上げ、瞼の上を覆う。
 狭い部屋には熱気が籠もっていた。二月。ブエノスアイレスは夏。カレンダーの数字と
季節のズレに驚くこともない。この街で五度目の夏だ。薄い布団を足で蹴りやり、壁を向
いて丸くなる。息が熱い。酒の匂いが喉から鼻に蘇る。苛立たしかった。彼は勢い任せに
壁を蹴った。部屋が揺れ、天井から小さな埃が降り注ぐ。カーテン越しの黄色い光の中に
それは、ちらちらと白く光った。
 枕元で小さな音がした。ガラスの割れる音だった。獄寺は寝返りをうつと、ベッドから
床の上を覗き込んだ。小さな写真立てが伏せるように落ちていた。木枠と背のコルク材の
下に、砕けたガラスが真昼の光を反射させていた。
 獄寺はのろのろと立ち上がった。長く伸びた髪が肩から雪崩落ちる。彼は腰をかがめ写
真立てを手に取ったが、それを伏せたままテーブルの上に置いた。彼はしばらくテーブル
の上に手をついたまま動かなかった。重たい身体、重たい髪、なにより重たい腹の奥に沈
みこんだ心。アルコールとニコチンの海にどんよりと沈みこんだ死骸。
 離れた場所に立て掛けた姿見に映る自分の姿は、十年前に生き別れた姉の容貌によく似
ていた。長い灰色の髪、西洋人的な上背のある身体。しかし獄寺の目はどろりと淀み、目
元には小さく皺が寄っていた。姉はこんな目をしていなかった。あの目は愛にきらめき、
涙に濡れていた。もっともその目を自分は直視することなど出来なかったが。
 十年前を思い出すと、気分の悪さに目が醒めた。獄寺は髪を背に払うと、流しで顔を洗
った。それから冷蔵庫の前にしゃがみこみ、サプリメントのボトルを二本取り出す。そこ
からタブレットを二錠ずつ取り出した。窓にかかるカーテンを何枚も重ねたような濃い黄
色のタブレットだ。一気に口の中に放った。ミネラルウォーターで飲み干すと、硬い粒が
喉にごつごつとぶつかりながら胃へ下りていく感触がした。
 カーテンを開けると、強烈な真昼の陽光と共に左目に痛みが走った。獄寺は汗の染みた
シャツを脱ぎ捨てた。床の上にはそういったシャツが何枚も散らばっていたが、彼がコイ
ンランドリーにそれを持っていくのは、もう少し先の話だろう。裸足のままそれを踏みし
だき、新しいシャツを探す。
 不意に足の裏に走った痛みに、獄寺は立ち止まった。熱い鉄板でも踏んだかのような痛
みだった。足の下には、さっきの砕けた写真立てのガラスが光っていた。
 獄寺は脱いだばかりのシャツで足の裏の血を拭い、それをそのまま雑巾のようにガラス
の破片を集めてゴミに捨てた。絆創膏を探したが、空箱しか見つからなかった。彼はその
まま靴下を履こうかとしたが、その時、テーブルの上の写真立てが目に留まった。獄寺は
乱暴に掴んだ靴下から手を離した。クロゼットから消毒液と包帯を探し出す。痛みに眉を
ひそめつつ包帯を巻いた。怪我をしたのは、思えば久しぶりだった。
 スーツを纏った彼は、姿見でその姿を確認すると後は何も振り返らず外へ出た。国旗の
ような澄んだ水色の空が広がっている。石畳の道。通りを行く白い肌の人達。獄寺の姿は
その中に全く溶け込んでいたが、ふとすれ違った人間の振り向く異様があった。しかし振
り返ったときに獄寺の姿はもうない。人ごみに消えてしまっている。
 ポケットからよれた煙草を取り出し、獄寺は右目で太陽を睨みつけながら紫煙を吐いた。
左目の上を黒い眼帯が覆っていた。


 あの夏、飛行場のガラスから差し込む真っ白な光。遠くにぼんやりと響いていたアナウ
ンス。顔を濡らす玩具の鉄砲の水。乗せられたのは小さなプロペラ機。香港の雑踏。キャ
バッローネのディーノから渡されたメモを千切り捨て、あてどなく歩いたあの夏。
 九代目から死の宣告を受けたのだと、それはどうでもいい。彼が仕えるのは十代目、沢
田なのだ。しかしその沢田と、もう二度と会うことはない。再び姿を現せば、掟に従って
殺される。この忠誠も、裏切りの隠れ蓑としか見られない。
 俺はあの人だけを信じればよかったんだ。キャバッローネも九代目も関係ない、あの人
だけを信じ、あの人の側から離れてはいけなかった。死にかけたことが恐ろしいのではな
い。自分の選択を後悔することより、沢田から離れてしまったこと、もう二度と沢田に仕
えることが出来ないこと、もう二度と沢田とまみえることが出来ないことが怒涛の苦痛と
恐怖となって押し寄せた。
 気づけば大量の血を流し、船底の暗い床の上に寝ていた。幾つもの浅黒い足が、目の前
を行き来していた。目茶苦茶に巻かれた包帯。獄寺は自分が死に損ねたことを知った。日
本を離れて一月が過ぎた頃だった。最後に残ったマイトを爆発させ、彼は死のうとしたの
だった。胸に沢田の写真を抱いたまま。服は焦げていたが写真は残った。
 死ねなかった。獄寺は生かされてしまった。
 自分を助けた人間たちは、そのまま獄寺を人足として扱った。その時、既に左目は手遅
れの状態だったが獄寺はもう構わなかった。船はそのまま南下し、様々な港に停泊した。
ある夜、獄寺は船の金を奪い、逃げた。それから何年と東南アジアを転々とした。男を騙
し、女を騙し、盗み、殺した。しかしもう痛む心は残っていなかった。あの夜、肉体は生
き延びた。しかし心は死んでしまった。
 ブエノスアイレスやって来たのは五年前。やっと辿り着いたアメリカにも長くいられな
かった。そこにもイタリアからの腕は伸びていた。しかしスモーキンボムの腕は衰えてい
なかった。否、日本を離れてからの日々で悪童の牙はより荒々しく、しかし研ぎ澄まされ
ていた。
 銃口の向こうにボンゴレが見えた。既に世代は交代していると、獄寺に銃口を向けた男
は言った。そうか、ボンゴレか。ボンゴレが俺を殺しに来たのか。では、あのトリガーを
引くのは、沢田なのか?
 アメリカを最後に、獄寺の足取りは完全に消えた。今、南米の空の下にいることを知る
は、それこそ神のみだと言いたいが、しかしもう獄寺は神を信じていない。


 楽器店から姿を現した獄寺は楽譜を手にしていた。彼はそれを小脇に抱えると、清潔な
街並みを人の流れに任せるように歩いた。
 南米のパリと呼ばれる都市、ブエノスアイレス。しかし獄寺の心に響くものはない。確
かに幼少時見慣れたような街並み。道行く人間もヨーロッパ系の人間ばかり。しかし石畳
の道に響く足音は虚ろだ。巨大な7月9日通りも、交差点に悠然と聳え立つオベディスク
も、何やらまがい物じみている。日が落ちると輝きだすメルセデスの電光看板。極めつけ
はピンク色の大統領官邸か。しかし死人にはもってこいの街だと獄寺は思った。まがい物
の魂で動く人形が生きるには、相応しい街。
 獄寺は人波から外れると、安い酒場の並ぶ寂れた通りへ足を向けた。スーツ姿の人間が
消え、路地は薄暗く、狭くなる。
 角の酒場はどの窓にもブラインドが下りていた。が、獄寺は構わず扉を引いた。カウン
ターの隅に目つきの悪い男が座っていたが、獄寺の姿と認めると何も言わなかった。獄寺
は奥の部屋に足を進めた。
 広い部屋だった。ブラインドを越して光の縞が床の上に落ちていた。獄寺はその中央に
鎮座するそれに、そっと寄り添った。グランドピアノ。楽譜を脇に、獄寺は早速調律を開
始する。彼は右目も半ば閉じるようにして調律を行った。隣からは声がせず、外を行く人
影もない。
 今日買った楽譜はベートーヴェンだった。ピアノソナタ、ナンバー29、イン、Bフラッ
トメジャー、オーパス106。ハンマークラヴィーア。
 始まりは、フォルテッシモ。
 全4楽章を弾き終えるのにおよそ一時間を要するこの曲を、獄寺は全く表情も変えず、
正確に指を動かし、ただ只管に弾いた。弾いて、弾いて、まるで弾くだけの機械のように
手足を操り続けた。ピアノは強く音を叩きつけ、部屋一杯にその奏でを響かせる。
 獄寺は脇目もふらず弾いた。いつの間にか部屋に一人の男が入り込んでいたが気にしな
かった。彼は現われたたった一人の聴衆も無視して弾き続けた。
 男は短い黒髪を後ろに撫でつけ、両手を耳に当てて獄寺のピアノを聴いていたが、やが
てじりじりとピアノに近づき始めた。獄寺は全く無視していたが、仕舞いには男はピアノ
を抱くように覆い被さると、その蓋に耳を押し付けた。
 ピアノの音だけが時を刻んだ。壁の時計は長針がほぼ一周しようかという時刻だった。
獄寺がようやく指を膝の上に置いた。ピアノの蓋に耳をぴったりつけた男は、まだ余韻に
浸るようにそのままの格好だったが、獄寺が指でピアノをノックすると、やっと顔を上げ
た。短い黒髪の下に、くっきりとした濃い眉。茶色の瞳が笑う。
 男の指が空に文字を書いた。Bから始まる名前。
「そうだ」
 獄寺は短く答え、煙草をくわえた。男が歩み寄り、ジッポーの火を近づける。獄寺は片
目でそれを一瞥し、火を吸いつけた。
 男がまた空に文字を書いた。『new』。獄寺は楽譜を男に手渡した。男は窓に近づく
と、縞の明かりの下でそれを捲った。ぺらぺらと最後まで捲り、両手を広げてみせる。獄
寺がうなずくと、一本指を立てて首を傾げた。
「まあ、そのくらいだ」
 しかし男は分からないという顔で獄寺に近づき、腕の時計を指差すと、もう一度、指を
一本立てた。獄寺も仕方なく指を一本立てて見せた。それで男は笑った。一時間、という
ことが通じたのだ。
 男はこの界隈でも腕の立つ用心棒だった。そしてブエノスアイレスで初めて獄寺に手を
差し伸べた男であり、獄寺のピアノのたった一人の観客。そして獄寺がこの十年で唯一、
まだ裏切ったことのない男。
 短くなった煙草を靴の下に踏み潰すと、男が獄寺の肩を叩いた。空に文字。『53』。
「…またか?」
 問い返すと頷く。獄寺は手のひらを頭の後ろで振って見せた。
「この前も、弾いた」
 男はにこにこと頷き、またベートーヴェンの名前を書く。
 獄寺は溜息を吐き、椅子に座りなおした。男は嬉々としてピアノの下に潜り込むと、腕
を伸ばしてオーケーのサインを送った。
 指が鍵盤の上に落ちる。リズミカルな始まり。ピアノソナタ、ナンバー21、イン、Cメ
ジャー、オーパス53。ワルトシュタイン。
弾きながら獄寺は、この聾の男に時々懐かしい面影を見たような錯覚を覚える。意志の強
そうな眉に誰か。茶色の瞳に誰か。錯覚だろう。もし本当に十年前の彼らの面影を重ねて
いるのだとしたら、甘ったるさにも程がある。
 ピアノ。弾いたこともなかった。彼らの前では。沢田の前でさえも、一度も。敬愛の極
みにましたあの沢田にさえ、自分はその全てを晒し捧げてよいと誓った沢田にさえ聞かせ
たことのないピアノ。それを十年経った今、聴く、たった一人の男。日本ともイタリアと
も縁もゆかりもない歓楽街の用心棒。
 しかしそれが人生だと自嘲する心もはや、獄寺は捨ててしまった。彼は求められるまま
に弾き続けた。死んだ心、空の肉体。ピアノの音はただただ強く叩きつける。
 ピアノの下に腰を下ろした男は、ただ凶暴なばかりに叩きつけられる音にしかし笑みを
浮かべ、聞こえぬ旋律を、その振動を追いかける。茶色の瞳に、獄寺の失った高揚が宿り、
束の間、自分の知りえぬ男、獄寺が壊してしまった写真立ての写真に写った男そっくりの
笑顔を浮かべている。
 午後の光はゆっくりと傾いた。二月。緩やかなまどろみ。隣の部屋でカウンターの男は
居眠りをし、頭上ではつけっぱなしのテレビが国際ニュースを流していた。その時、イタ
リアは冬。画面の中には真っ白な雪が降りしきっていた。



しかしそれが人生だ(メ・セ・ラ・ヴィ)






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