布の河を遡上する人々




「来たかい」
「来ました」
 二見が肌に汗を浮かせ坂の上までのぼり上がった時、相手は軒下にも入らず陽炎の中に立っていた。
「陰で待っていてくださればよかったのに」
 ハンカチで首筋を拭うと日焼けした腕が伸びて肩に挟んだ日傘を取り上げる。
「なに、先に見させてもらったよ。一時間もあったから」
「ごめんなさい」
「好きで早く来た。謝ることはない」
 津奈木は蔵の門から外れた、隣の店やの前に立っていたのだった。二見が入口を間違えて入ろうとしたので、こっちこっち、と肘に手が触れた。
「紛らわしいんですよ」
「悪いね。ほら、この水槽、蟹がいて可愛かったもんだから」
「沢蟹ですか」
「愛らしいだろう」
 水槽から滴り落ちる水に手を触れさせる。熱がスッと逃げる。
 ようやく門から案内されて蔵に入った。
 二見はこうして時々、同級生のこの突飛な遠出に付き合う。およそ県北、山鹿の付近と言えば装飾古墳、石人石馬。古代の話ばかりであったから現代の芸術家の展示に誘われたのは意外であった。
 素直にそう口にする。
「それでもよかったんだが」
 津奈木はこちらの顔を覗き込む。
「本当は首塚だの、そういうのを見に行こうかとも思ったんだがね。季節が良かったから」
「暑いわ」
「だからたまには腰を据えて美味いコーヒーなんぞ飲むのがいいだろうと思ってね。隣がカフェなんだ。後で飲もう」
 一日、時には一泊で遠出に付き合って、それでも土地の美味い飯に頓着せぬが津奈木だったから妙に殊勝な心掛け、二見は逆に訝しんだが津奈木には大した裏表がない。蔵に飾られた染物、反物、着物の間をゆっくりと縫って行く。背中には汗が染みている。坂の上でかいた汗、と二見は思った。
 前を行く背中は蔵の奥、天井から吊られた反物の前で足を止める。二見の足も止まる。
 御覧、とも、どうだい、とも言葉はなかった。ただ二見は反物の正面に立つよう導かれた。深く染められた黒の反物が一、二、三、四。両脇、その次と段をつけて奥まって配置されている。一番奥に吊るされたのは鮮やかな撫子色の絞り染めだった。それはただ布、ただ反物ではなかった。表に仏が描かれている。
「仁王様ですか。お寺の門の両脇に立っている」
「うん」
 黒い反物の上に白い雲の湧き立つように阿吽の姿が現れている。両脇からカッと強い視線が見下ろす。
「その次が」
「十二体いるだろう」
 六体ずつ、両脇に対になり。仁王像が強烈な白色の光であれば、十二体の戦う神の姿は五彩を纏う。十二の面それぞれに浮かぶ怒り、慈しみ、二十四本の腕それぞれの手が示すのは教えだろうか、救いだろうか。
「十二神将、で、あっていますか?」
「うん」
「でも名前が分からないわ」
「意味は分かるだろう」
「どうかしら…」
 二見は顎に手をやる。
「一番奥の仏様を守護しているのは分かるけれども」
「十分正解だ」
「それで、これ、私の想像なのですけれど、奥の仏の威光を反射してこちら側に示しているのではありませんか?」
 最奥からは鮮やかな光が迸る。ここが光脈であり、この場を統べる中心である。
 温かく広がる撫子色。その布の放つ光を反射するがごとく、十二神将の身体には鮮やかなピンク色の線が走る。
「ねえ…」
「キャプションがないのに君にそこまで考えさせる。これを描いた人は大した人だよ」
 撫子色の光の中微笑しているのは月光菩薩に日光菩薩だと低い声が囁いた。囁きを聞きながら二見の意識は染め抜かれて真っ白な中央の円に注がれていた。
「あすこにも誰かいらっしゃるのね」
「薬師如来がおわす」
「どうして知ってるんです。仏教の世界では常識なのかしら」
「一時間前にね、この絵の前で製作者に会った。誠実に説明してくれたよ」
 二人は顔を見合わせた。津奈木は片頬を持ち上げた。
「若い人だった」
 時々、人が流れてくる。それに運ばれるように足が自然と動き出した。階段を上って二階の展示室に移りがてら、踊り場から見下ろすと薬師如来がおわすはずの絞り染めの中心に梵字を掲げるパフォーマーの姿があった。シャッターを切る音が一瞬、鮮烈に響いた。
 布の間を泳ぎ回り、門に懸けられた染物の暖簾をくぐって表へ出た。
「現世」
 二見が呟くと、塵界の暑さだ、と急に湧いた汗に津奈木は苦笑した。
 約束通り美味いコーヒーを飲んだ。
「目論見は知れていると思うが、あの仏の画を見せたくてな」
「確かに素晴らしかったけれど、何故。突然に」
「衆生の病を癒すのが薬師如来だ」
「案じられるようなことは…」
「最近寝ていねえくせに」
 半眼閉じた津奈木の目がじっと見た。
「眠れねえくせに」
「寝つきはいいんですよ。ただ寝るまでに諦めきれないだけ」
「何を」
「何もかも」
 寝る前に神様にお祈りしているか、眠っている間に息が止まってしまわないように…。津奈木のその科白は冗談でロシアの文豪の小説の一節だった。他愛もない一節だったが、二人はそれを気に入っていた。
「あれは中央に人が立って、初めて完成する作品だと言っていた」
「あ、あ」
 二見が両手で口許を覆って途切れ途切れの笑い声を上げた。
「言えばよかったわ、私、そう思ったのに」
「パフォーマンスを見たからだろう?」
「違います。その前から想像していました」
 津奈木もわざと笑い、それから落ち着きを取り戻し、頬杖をついて二見を眺めた。
「おかわりを飲もう。私が出すから」
「悪いわ」
「悪いことのあるものか」
 全部だ、と津奈木はもう片手を二見に向けて開いて見せた。
「何もかも欲しいと思ったものを、全部」
「くれるの?」
「あげたいな」
「あげたいという心が欲しいのよ、あまさず」
 全部、と囁き二見は津奈木の掌の上に自分の手を重ねた。その手はアイスコーヒーの器の濡れた表面を掴んでつめたく冷えていた。