着物に棲んでいたもの




 階下で強い風が吹いた。木戸が軋む。二階の空気は底に溜まった冷たい空気だけぼんやり揺れておよそ静かなままであった。天井からかかった泥大島紬の黒の下、私は息も吐かなかった。遠くに小さな悲鳴が聞こえて竹の落ちる乾いた音。染め物の暖簾が落ちたに違いない。風ははたはたと笑って門へと吹き抜けてゆく。
 雨が降れば山にも漂おうし、水が満ちればアスファルトの上にも這う。ここ数日の雨で屋根瓦の上に暴れるのにも飽いて漆喰の壁の隙間から蔵に這入り込んだならば、そこにうってつけの布団があったので居座っておる。己の名は知らない。泥大島の粋な光沢は吸う息、吐く息、心地良くしてくれたものだ。私は黒い絹糸のような息を吐きながらしばし別荘暮らしと楽しんでいるのである。
 家主か借り主か知らないが人間がこれ大島というものは…と講釈垂れるのをほうほうそれそれそのとおりと相槌打ちながら、時々息を吐きかけてやれば気づく人間もあり。目を合わせれば宿を替えねばならん。億劫なので目を瞑って徒に息を吐いた。が泥に染められた絹糸の心地良いもんさ。眼で見えねど舌に解る。
 そうしてどうも風の強いこの日のこと。雲行きが怪しうて、一降りざんとくれば宿を替えるは致し方なしであろう。まだ降ってくれるなよと裏地の影で休んでおったところ耳朶を打つ軽やかな音。これは下駄ではないかね。思わず目を開けてしまった。
 女がいるようだ…と薄目に思った。薄い木綿の裾がさばかれるうち、ちらちら細い足首を覗かす。下駄の鼻緒に朱が一筋、見えたものだから妙に胸が躍ってしまった。女は私の周りを少し離れてくるくる回ってすとんと椅子に腰掛けた。あな惜しや。ここへ座って御覧なよ。泥大島紬の艶やかな黒、間近で見てみないかね。その目に映ろうが、綾な文が。天から細く滴って、先でまた見上げるようにくるりと反る。くるりと反って地の黒、天の色を交互に見交わすうち溜まって出来た影が奇妙な模様になっておる。生きた物のように見えないか。それは私が細工をしたのさ。影に潜む眼のような朱の点がここにあろうがよ。所々に眼を開いて泥染め黒に縁取られてお前を見ておろうがよ。これを織った人間も裁ち繕うた人間も首を傾げたものさ。果たしてこの着物はこんな柄であったろうかな…。
 影の静けさ懐かしや。私が産まれたのも黒の織り重なった所であったし、お前が産まれて踏み締めた足の裏と土の間、そこにもこれは必ずあったのである。私は今となってはどうしても女に振り向いて欲しくて目を見開いて息を吹きかけた。ちらと私を見る視線を待った。念願叶ったのは表の八手を雨が打ち出す前だった。
 白い足な裏と下駄の狭間で踏まれたり平たくされたりしながら私は蔵を出た。白壁の蔵の中、吊された泥大島に既に未練はなく踏まれることさえ快楽と呼べば快楽だろう。染め物の暖簾の飛ばされてしまった戸をくぐり門を出て、わずかに上りのゆるい坂道を雨の匂いと肘打ちしながら上る。蔵の隣の店やでは表の水道から溢れ出した水が水槽から漏れてアスファルトに黒い筋を描いている。逃げ出した蟹がこそこそと横ばいに、下駄と足な裏の隙間でにんまり笑う私を嘲笑して側溝の穴にぽちゃんと落ちた。