同期の桜へ




 愛人もいない。妻もいなければ子もいない。冬の入り、曇り空が寒々しい。午後であった。
 暇潰しはそれぞれに持っている。話すことも特にない。ならば連れ立つ必要もないのだが、そこは誰もいないというのも寂しいものだから。
 時々、水面を風が吹き渡り、枯れた葉がかさかさと音を立てた。張り合いのないのが二、三、そのまま飛ばされていった。自分はそれを見遣った。背中合わせの男は動く気配もなかった。襟元に首を埋めて、ただただ文字の世界に没入する。自分は文字のない世界にいる。動かぬ釣り糸と、流れながら流れているようにも見えぬ水面と、揺らぐ前から物寂しい空間に溶ける煙とである。全ては悠久の下で儚い。この水面さえいつか埋め立てられ、暇潰しをする男達がいたことも忘れ、騒がしい街になるのかもしれない。
 神の手から落ちこぼれたかのようだ。あまりに暇な午後だった。未来を描くにはどうも色のない景色であった。自分は煙草をくわえ、釣り糸の先に目を落とす。帽子の陰が目を覆い、もっとうそ寒い季節になるぞと告げた。来るがいいさと答えた。
「そのような地獄に自分は行くんだ」
「何だって」
 背中から低い声が返した。
「娑婆は退屈だ」
 男が再び文字の世界に入ったのだろう、沈黙が濃くなる。もう応えまい。自分は文字のない世界に没入する。精神が漂白され言葉をなくした時、小説がどぷんと音を立てて自分の中から流れ落ちた。ぱしゃん。水面を叩く。
 男が振り向く。じっと水面を見ている。自分もそちらへ目を遣る。今自分が落としてしまった小説が尾鰭で水面を叩き別れを告げる。
 ふと目が覚めた。大きな鯉だった。