足の速い少女と金魚




 でも、いつまでもこんな稼業を続けられる訳ないじゃない、とほんの一瞬同室だった女の子は言った。仕事から帰ってきたばかりでパンツを脱いで、柔らかなミルクティー色のカーディガンが身体を包んでいた。
「だからあなたも生き方を考えた方がいいわよ」
「生き方ってなによ」
 説教は嫌い。正義感の押しつけとか腹立つ。私のためとか言われるともっと腹立つ。でも彼女は私にそこまで深入りするつもりないらしくて(多分、この時、部屋から出てくことを決めてた)、ごめんとか言って話を打ち切った。
「何よ、言いかけて、何よ」
 その時あたしがつっかかったのはどうしてなんだろう。でも彼女は答えなくて、ギリギリ隠れてたお尻が、バスルームの手前でふわっと捲れ上がって見えて、ミルクティー色のカーディガンは廊下に脱ぎ捨てられて彼女の姿は白いベニヤのドアの向こうに消えた。翌日も、彼女がいなくなってからも、カーディガンは廊下に脱ぎ捨てられたままだった。私がようやくそれを捨てたのは久しぶりに来た家主の彫西が文句を言ったからで、黒いゴミ袋にとにかく何でもまとめて詰め込んで、それを持って外へ出た。あたしが手足を血塗れにして帰ってきてから一週間経っていた。
 雨が上がって、濡れたアスファルトの道路はピカピカ光っていた。空を見上げると雲が凄い勢いで流れていく。飛行機が飛んでるみたいな音がするけど風の声だ。私は彫西を振り返って尋ねる。
「何があったの?」
「台風だよ、馬鹿」
 彫西は煙草に火を点け、マッチを水溜まりに放った。ジュッと小さな音が、激しい気流の下でもちゃんと聞こえた。あたしは耳がいい。目もいい。足も速い。だからこんな稼業をやっている。
「焼き肉食うか」
 彫西に言われて、久しぶりに着たあんまりによれよれな服を着替えて、繁華街まで連れて行かれる。色んな匂いが身体に染みる。でも彫西の匂いは間違えない。きつい煙草の匂い。それに両手から漂う墨の匂い。
 焼き肉を食べる最中、彫西は喋らない。ずっと野球中継を見ている。テレビはあたしの背後にあって、あたしには見えない。仕方ないからあたしは彫西の眸を見る。すると彫西がどんなゲームを見ているか、どのチームを応援してて誰にお熱なのかがよく分かる。あたしは目がいい。
 彫西が仕事の話をしたのは、四杯目のビールが届いた後で、彫西はジョッキの表面を垂れる冷たい汗を指先につけ、全部テーブルの上に描いて説明をした。一言も口を利かなかった。あたしも言葉で言われるよりこっちが分かりやすい。あと五日もすれば満月だから、その夜にやる。
 雲の多い夜だった。ビルの上の雲が妖しく光ってるのはネオンサインの照り返しじゃない、月が出たんだ。
 最初は電車で向かう。地下鉄を乗り継いで一時間かかる。あんまり遠くはない。もっとビルが犇めき合う街中で私は覚えた匂いを尾行する。丸いお尻に見覚えがある。あたしに偉そうなこと言ったのに、こういう生き方でいいのかしら。っていうかこういう死に方で。
 でもあたしが飛びかかる前に彼女は消える。ふられた男が戸惑ってるところで、あたしはその心臓に一撃。骨を通してドーンと太鼓みたいな音が響いて、あたしは男の心臓が止まったのを感じる。血は口から吐いた分だけ。大丈夫。あたしは路地裏を駆け出す。現場からはすぐに離れる。早く、早く、走らないと。だから両手両脚を使う。路地裏は舗装されてなかったり、されててもゴミやガラスが散乱してて怪我をする。走っている間は問題ない。立ち止まると、それが痛む。だから止まらない。今度は地下鉄を使わず、彫西が用意してくれてたビルに飛び込む。狭い階段を五階まで両手両脚を使って駆け上がる。奥に灯りが見える。きつい煙草の匂い。四つん這いから立ち上がってドアを開けて、あたしは痛みに崩れ落ちる。
 彫西はシャワーを使えと言った。あたしは疲れてたからお風呂に入りたかった。口論したけど、理由はすぐに分かった。バスタブには金魚が泳いでいる。彫西の趣味だ。彫西はバスタブの横に腰掛けて、いつまでだって金魚をスケッチできる。
 あたしはシャワーで泥を落とし、刺さったガラスを抜いて缶詰の空き缶に入れる。そして爪先からそっとバスタブに滑り込んだ。最初は逃げた金魚も、あたしが動かないと自由に泳ぎ回る。胸の前、足の間。彫西がノックもせず入ってきて私を叱る。
「金魚が火傷するじゃねえか!」
 金魚は自分から近づいてきてあたしの膝にキスをするのに、横暴な言い種だわ。