書籍愛好家であったスタンド使いの最期




 男が、驚きの後、半ば憎悪にも近い目でこちらをみていた。イェーシカは高く掲げた右手の先、彼女の本が無事なのを認めて心底安堵の息を吐いていた。その目も、口元も、腹の真ん中に幾つも空いた大穴に頓着せず、見えてもいないようだった。表情は自然と和らぎ、笑みたたえてさえいた。しかし噴き出す血は止まらず、徐々に命の抜け落ちるその身体はもうバランスを保つことは不可能だった。それでも彼女は立ち続け、ようやく目の前の男を見た。男と彼女を囲む周囲の風景は砂のようにぼろぼろと崩れ始めていた。美しいトレドの街。教会と、その前に広がる広場と。ライオンの像、噴水、コインの沈む泉。その何もかもが崩れ落ち、この場本来の姿である古い闘技場の石畳が露わになる。崩れ落ちた砂も、姿を消し始めているのだ。イェーシカのスタンド能力は消えつつあった。
「ルールを」
 喋り出した途端血が溢れ出し、彼女は一度それを吐き出さなければならなかった。白いエプロンが赤黒く汚れた。
「守るのは好きなの。美しい行為だから」
「お前は何をしているんだ?」
「言葉を…」
 イェーシカは本を掲げ、目を閉じて一呼吸すると、一語一語をはっきりと口にした。
「らせん階段。ドロローサへの道。天使。紫陽花。これが私に与えられた言葉。持っていくといいでしょう」
「だからお前は何をしているんだ?」
 男もまた一語一語はっきりと尋ねた。
「その本の中では何人も人が死ぬな。焼かれ、吊され、沈められる。じゃあ何故そうしない。反撃しろ。お前の力を使え!」
 勝ちたいと願った人が何を言うの?とその眼差しだけで問い、イェーシカは口を開かなかった。もう残された力はわずかもなかった。つま先立ちのブーツは震えていた。流れ落ちる血で、新緑色のそれもどす黒く染まっていた。
 とうとう女の身体が倒れ伏した時、男は駆け寄っていた。右手の先で本が開き、土埃を上げていた。ページを捲ればいい。この本の言葉を口にすればそれは具現化される。ならば…。
 ざっ、と。影が差した。それはどこかから射す光のせいだった。何とか半身を起き上がらせたイェーシカの影が本の上に落ちる。
「離れなさい」
 乱れた黒髪の間から黒目がちの瞳が見上げた。
「私の本に触るな、フレデリク・オーガ・セザール」
「死ぬぞ」
「書籍愛好家は本の為なら母親だって売り飛ばすわ。私も愛する本のためなら命くらい捧げるの。それが愛書家の運命よ」
 その時、男は初めて目の前の女の行動を理解した。自分はスタンドに狙いを定めて攻撃した。その瞬間、イェーシカは当たり前の行動に出たのだ。命よりも大切なものを守った。彼女は愛書家なのだった。目の前で愛する本をバラバラにされ汚されるのを見るくらいだったら命など容易く捧げる、一書籍愛好家だったのだ。
 まだ汚れていない指先を彼女はページに伸ばした。風が味方をし、彼女の読みたいところまでページを進めた。
「シック・デドー・メ」
 女は読む。
「かくして我が身を捧ぐ…」
 周囲の匂いが変わった。乾いた香草とワインの匂いがした。中世期の石畳が足下に敷かれ、四つの塔を持つ背の低い城が姿を現した。
「私は後を振り返ることもせず、ゲートを押し開けて通りへ出た。一歩ごとに背後に残してきた物から確実に遠ざかるという思いがあった…」
 男は四つの塔がそれぞれこの奇妙な世界で見た四つの街であることに気づいた。それは完全な本の景色のトレースではなかった。本の言葉は彼女自身の言葉と溶け合いつつあった。石畳の上では朝陽の反射のような光がちかちかと弾け、イェーシカと名乗った女は最後の笑みを浮かべていた。
「わたしはあなたに俯き加減で近づいていった」
『おまえはわたしに俯き加減で近づいてきた』
 スタンドの声がイェーシカの声と重なって石畳の上に響いた。それは幾重にもエコーし、それを聞く男は本の中に閉じ込められたような錯覚にぶるりと身体を震わせた。イェーシカは続ける。
「未練をふっきり、自分自身の影に別れを告げる覚悟を固めていたのだ。しかし、」
 イェーシカの手は優しく最後の行を撫でた。
「わたしの足下になんの影もなかった」
『おまえの足下になんの影もなかった』
 その言葉が唱えられると共に、どこかから光は射しているのに、みるみる彼女の影だけが消えていくのだった。
 影のない笑みを浮かべ、イェーシカはそっと本を閉じた。
「これで読了、です」
 彼女が目を閉じ崩れ落ちるまで本はその姿を消さなかった。ばたりと身体が伏し、表紙の上にのせた手がぴくりとも動かなくなって、さらさらとそれは崩れ落ちた。気がつけば男は、もとの陰鬱な闘技場の真ん中に立っていた。
 目の前にはイェーシカと名乗った女の死体があった。トレドの街も、四つの塔も、朝陽も、全てが幻と消えた。あるのは腹に幾つも大穴を開けられた血塗れの死体だけだった。
「らせん階段」
 男は呟いた。
「ドロローサへの道。天使。紫陽花…」
 死体の目の前にしゃがみこみ、手を伸ばそうとして躊躇った。そして憎悪と不可解と、些かのやるせなさを顔に浮かべ立ち上がった。死に際の彼女が命令したとおりのことをしようというのだった。彼はゆっくりとその場を離れ、立ち去った。