イェーシカ嬢の南へ向かう旅




 霧と街の境、ゆらりと揺らめくヴェールに淡く翳す青い影が何か見覚えのある姿のようで、イェーシカは足をとめ、耳を澄ます。石畳に反射して霧に吸い込まれる弦の音が淡い旋律をなす。彼女の爪先は影に抱かれるように踊り、声なく微笑んだ。自分の吐息が霧を震わせ、夢と現のあわいに咲いた花を散らすのを恐れたのだ。
 霧の向こう建ち並ぶビルのどこか一室に、その画家は住んでいるという。姿を見たことはない。私は会った、という噂はこの街に集う人々の口から聞いたことがあったが、イェーシカ自身はその画家を、彼女のことを絵でしか知らない。
 ギターの旋律に合わせて踊る、石畳の道を抜ける、その建ち並ぶビルの壁に貼られた一列の絵。人間の見知り得ぬ天上にこそ咲くか、水色の蓮の花が霧の中を漂う。彼女は本を抱え、昔見たバレリーナを真似、足を高く上げる。後は音楽に魂を揺さぶられるまま手を伸ばしステップを踏むだけ。
 南へ。蓮の花は誘う。この先は霧の晴れる南へと。絵の最後にはサインがある。イェーシカは指先でその文字をなぞり、口に出す。本から響くスタンドの声が重なって、その名は一瞬人の姿をなす。
 振り向くと霧は晴れ、いつもの薄暗い石畳の道だった。両脇に並ぶ煉瓦のビルの窓の一つが開いて、蓮の花びらが降り注いだ。彼女は本を開き出鱈目に文字を拾う。蓮の花は探偵になり、石像になり、壊れかけた宇宙船になり、降り注ぐディスクになり、最後はそれが全て水色の水に溶けて街を濡らした。イェーシカは、くくっと喉の奥で笑って南へ歩き出した。