駱駝と針の奇譚 8




 もうすぐ痛み止めが効くはずだ。俺はクソほども慰めにならない言葉をかけて自分を奮い立たせている。今にも歯の間から漏れそうな醜い泣き言を封じる。腹が痛い。昨日から下痢が止まらない。何を食ったのが悪かった。もう三日も雑炊しか食ってねえぞ。昨日はやっと卵入りを食って……あれか? 卵が悪かったのか? それなら全員食ったじゃねえの。畜生め。俺だけかよ。こういう不幸が似合いなのはチョロ松だ。でなきゃ全員が腹を下さなきゃおかしい。畜生。畜生。ガキの泣き言みたいだ。ムカつく。
 もうすぐ痛み止めが効くはずだ。
 こんな子供騙しの呪文を唱えなきゃ正気も保っていられない。薬を飲んだのは一時間前だ。そうだろうか。今朝はトド松が柱時計のネジを巻き忘れて時間が分からない。あいつはスマホ持ってたけどこっちに来る時なくしたってよ。持ってきてもどうせ使えなかっただろ。アンテナは立たない充電器もない。地獄のスマートフォンなんか、おとといおいでだ。…は、何だって。地獄の話なんかしてないだろ。あれからどれくらい時間が経ったんだ。おそ松がどこかから盗んできた薬を飲んで何時間経ったんだ。俺は何時間この戯言を信じているのだろう。次の瞬間には薬が効くはずだ。そう信じて一分、一秒を我慢する。白い錠剤が腹の中からすーっと効いて安らぎをもたらしてくれる。だから今は我慢しろってか。信じる者は救われる。そりゃそうだろうよ。信じて救われなかったヤツらはクレームつけようがないんだからな。死人に口なしだ。愚かに信じて次の瞬間を待つんだ。俺は救われる。めでたい頭だな。十四松、サッカーしろよ。俺の頭をフリーキックで大気圏まで飛ばせ。もうすぐ痛み止めが効くはずだなんてお手製の嘘を信じて死んでりゃ世話はない。
 口から息を吐く。そのまま呻きたい。痛みのままに大声を上げたい。何を遠慮する必要がある。遠慮も気を遣ってやる必要もない。ここにいるのは馬鹿な兄貴と馬鹿な弟だけだ。ギャーギャー喚いて迷惑をかけてやればいいのだ。なのに俺はそれを我慢して唇を噛む。熱い息を呑み込む。そしてあてにならない慰めを馬鹿みたいに繰り返す。もうすぐ、もうすぐだ。繰り返し続けた言葉は手汗でくしゃくしゃになっている。俺は、もうすぐ、それが空手形だったと知るだろう。震えた。俺はこの期に及んで死ぬのが怖い。笑えた。
 サイレンに起こされる。瞼が眼球に貼りついたように開けられない。サイレンも耳に寒天でも詰め込んだみたいに遠くから聞こえる。まだ寝かせてくれ。俺は寝てたのか。腹はどうなった。下痢とか漏らしてないよな。布団の中はひどく温かい。そしてぎゅっと俺を押し潰す。俺は全身にかかる圧を心地良く享受する。身体が揺れる。揺れながら俺を圧迫する力は強くなる。もっとそうしてくれ。天国に行こうなんて思っちゃいない。
 次のサイレンは遠くに微かに聞こえるだけだ。二月の終わりの澄んだ空気を震わせている。瞼が重い。暗い。何かが載っている。手は…動いた。取り上げるとひやりとした空気が瞼を洗った。俺は目を開けた。眩しい。が、昼じゃない。部屋は薄明るい。でも俺の目には眩しい。開いた窓から水色の空が見える。ここの空は広い。高い。その向こう、俺の見えない彼方をサイレンが震わせている。音の形がちりちりと鼓膜の奥を痺れさせる。俺は目の上を覆っていた湿った手ぬぐいで耳を拭った。拭ったところが黄ばんで汚れた。耳の中にもひんやりした空気が流れ込む。朝だと思った。朝方だ。夜が明けた。俺は真夜中のままでもよかったのに。
 目が覚めたか、一松。
 俺に囁くヤツがいる。俺の枕元に座っているヤツが。
「まだ起きるな」
 カラ松が半纏を脱いで俺の布団の上に載せた。俺の上には布団が二枚重ねられていた。その上に更に重ねられた半纏だった。
 妙な朝だ。周りに誰もいない。いつも十時過ぎまで寝てる兄弟たちはどこに行ったんだよ。分からない。俺は尋ねない。悪態は吐いてもよかったが、やる気が起きなかった。億劫だ。手ぬぐいを持ち上げただけで疲労感はマックスに達した。もう何もする気が起きない。カラ松はそんな俺の首を膝に載せ、コップの中の水をスプーンで掬って俺に飲ませた。一口含んでは口の中に染みこませる。嚥下するのが苦しい。そのたびに死にそうな息を吐く。カラ松は辛抱強く俺に水を飲ませる。俺は気づく。水は甘い。砂糖の味だ。
「これか?」
 カラ松はコップを傾けた。
「砂糖を買ってきた。気にするな。オレ達も舐めたから」
 訊いてもいないのにカラ松は喋った。さっきまで黙ってたのも妙な感じがしたが、喋られればまたうざい。でも俺は俺の知りたかったことを知った。医者が来た。俺を診察して本物の薬を処方した。栄養をつけろと言われて砂糖を買いに行った。どこへだ。それに医者に払う金はどうやって工面した。何も心配する必要はないとカラ松は言う。
「治ることだけを考えろ。オマエはオマエの心配だけすればいい」
 俺は自分の心配しかしたことない。いつも通りだ。
 更に一日、うとうとと眠っていた。半覚醒の夢の中でいくつもの足音が響いた。俺は誰がそばにいて誰が立ち去ろうとしているのか分かった。足音には色がついていた。形もあった。夢らしい感覚の混乱だ。カラ松だけが動こうとしないから、早くどこかに行けよと思った。お前の顔だけ一日中見てるとか、ないから。
 日が暮れてもう真っ暗になってから、また意識が明瞭になった。枕元にいたのやっぱりカラ松だ。俺の首を膝に載せ、スプーンで砂糖水を飲ませる。コップの底に少し残るだけになって、俺はもう嚥下する元気がない。
「カラ松兄さん」
 トド松、いつからそこにいた。階段を上ってくる足音が聞こえなかった。いや、俺は今耳が聞こえているのか。今朝まで寒天が詰まってた筈だ。
「起きたの?」
 あざとい笑顔もすっかり地だな。トド松はにっこり笑って俺の枕元に膝をつく。傍らには鍋を置く。鍋?
「気分はどう?」
 最悪。
「マジ? 最悪?」
 だよねー、とトド松は笑う。
「カラ松兄さん、お風呂の順番」
「ああ」
「一松兄さんの身体はボクが拭いておくから」
「じゃあ…頼んだぞ」
 膝枕が抜けようとした時、トド松が目敏くカラ松のコップを見つける。砂糖水残ってるじゃない、もったいない。ボク飲んでいい?
 俺はカラ松の袖を引いた。
「一松…?」
 今度は強く引いた。
 カラ松は膝枕でしっかり俺の首を支えると、俺の唇にあてたコップをゆっくり傾けた。砂糖水が、スプーン二掬いしかない砂糖水がゆっくりと口の中に流れ込んでくる。舌の奥から勢いよく喉に流れ込む。俺は咽せて半分くらい布団とカラ松の半纏の上にそれを吐くが口の中に残ったものを意地で呑み込む。
「今朝より元気が出てきたな」
 咳のおさまった俺の頭を枕に載せてカラ松は立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるぜ」
 その時ウィンクしたのか手で格好つけたのかはもう見ていない。砂糖水を呑み込むだけで俺は死ぬほど消耗した。トド松が布団をはぐって俺のパジャマのボタンを外すのにも抵抗しなかった。
「一松兄さん」
 べとべとの俺の身体を鍋の湯で絞った手ぬぐいで拭きながら、トド松は俺の目を見ずに言う。
「元気になったね」
「……元気そうに見えるかよ」
「嫉妬するくらいの元気、出たじゃない」
「…はあ……?」
「ヤキモチやいたんでしょ」
「意味不明……」
「こんな時くらい素直になれば? あ…さっきなったか。一松兄さんにしては上出来だよね」
 それきりトド松は黙った。黙らなければ黙れと言ってやるはずだったが察しのいい弟だ。口達者なだけでなくマメだった。脇とか臍とか気になるところも全部拭いた。下半身もだ。俺のペニスを掴んで「ふにゃふにゃ」と笑った。俺は体力戻ったらまた突っ込んでやるからなとは思わなかった。そういう気になれなかった。ただふにゃふにゃのペニスを握って拭いてくれるのがトド松だということに少し安心もしていた。
「……トド松」
 元通りパジャマのボタンを留めて布団を被せるトド松とようやく目が合う。
「その……」
 言葉が出ない。
「いいよ。無理しないで。早く元気になって」
 最後にカラ松が残していった半纏を載せて、上からぎゅっぎゅと押さえつける。この圧迫感、懐かしい。首を反らせ窓を見る。今日は曇りだ。道理で静かなはずだ。B−29の出番はない。
「俺が寝てる間…」
「うん」
「空襲警報……」
「いつもだよ」
「俺……」
「大丈夫、置き去りになんかしてないから」
 布団に包んで俺を庭の防空壕まで運んだヤツがいる。布団の上から俺を抱き締めたヤツがいる。
 トド松は、じゃあねフニャ松兄さん、と俺を置き去りにする。俺は一人の部屋でじわじわ湧き上がってくるものにどう対処していいか悩む。悩んでもニューロンはなかなか繋がらず空転する思考はすぐにゼロになった。俺は諦めた。諦めてぼんやり暗い天上を見上げた。やがてぞろぞろ階段を上ってくる気配があって、長男を初めとする俺の馬鹿兄弟が顔を出す。それぞれの口がおはようとか具合はとか勝手に喋って押入から布団を引き摺り出しいつもの位置に布団が六つ並ぶ。敷き布団六つ。掛け布団六つ。見慣れない花柄の掛け布団が幾つか。
 心配しなくていいとかないだろ。俺たちがこの家に来た時、布団は三組しかなかった。この時代の金なんか持ってなかった。無一文だった。薬。医者。砂糖。どっから連れてくるんだよ。
 枕元を見上げる。裸の背中がある。薄暗い電気の下で筋肉の陰影。俺は見上げる。じっと見つめてしまう。それがダサいタンクトップに隠れるまで。カラ松が振り向く。
「心配するな、一松」
 俺は瞼を閉じる。何も考えたくない。






2016