駱駝と針の奇譚 7




 ハイスピードで血管の中にもぐりこんだニコチンが頭に到達するまで一秒もかからない。ボクは生まれて今日まで覚えてたことを一度も感謝したことのないトリビアを思い出す。人間の血流は時速六十キロメートル。トリビアじゃなくて理科の授業で習ったのかな。ボクの脳には真っ赤なベンツが突っ込むのと同じ速度でニコチンが飛び込んで挨拶がわりの刺激を白く光らせながら駆け巡り、ボクに向かってゴキゲンな手を振る。やあ、時速六十キロだって、こんなのまだまだ序の口さトド松坊や!
 お茶の間はすっかり夕方の色が染みて畳までオレンジ色だ。埃だらけのその上にボク達はめいめい座ったり寝転んだりしている。誰も、何も生産的なことをしようとしない。それはよく見た光景だった。お茶の間に家具がないことや、窓を開けて見える空が広すぎることや、爆弾を落とす飛行機が飛んでて防空頭巾の人が家の前の道を逃げてくことを別にすれば、いつものボク達の姿だった。今が昭和二十年でさえなければね。
「この家が正しい座標だ!……とか言ってたよなあ。言ってたよなあ、誰かさん?」
 おそ松兄さんがしょぼくれたチョロ松兄さんの背中を蹴り続けている。
「さっすがチョロ松先生、いつも自分は他と違うって雰囲気出してただけあるよねー。戦争中まで戻っちゃうなんてねー。正しい座標は引き合う!…だっけ? 昭和二十年だよ。家ねえよ。つか俺達まだ漫画にも出てねえよ。赤塚先生も生まれてねえんじゃねえの?」
 ボクはタバコを口から抓み上げた。まだくわえタバコのまま喋ったりできない。
「赤塚先生は昭和十年生まれだよ」
「知ってっし! 言葉の綾だし!」
「言葉の使い方違くない…?」
「お前までそんなこと言うのかよトド松。お前だけは俺の味方だと思ってたのに」
「敵も味方もないでしょ、今は」
「おっ、言葉の端々に見え隠れするドライモンスターの影」
 何だかんだでおそ松兄さんは元気だ。チョロ松兄さんの背中を蹴るのはやめないけど殺すほど怒ってる訳じゃない。チョロ松兄さんが持ってきたアヤシイ話に乗ったのもおそ松兄さんだ。もしおそ松兄さんが断固拒否したらチョロ松兄さんだってアヤシイ金玉を使ってタイムトリップなんてアヤシイことはしなかったと思う。昔はそんな区別も意識もなかったけど、今はおそ松兄さんが長男でボク達のリーダーなのだ。
 タバコを一呑みする。ああ、もうフィルターまで火が近づいてる。おそ松兄さんのタバコの匂い、ボクは別にそんなに好きじゃないし、もらった時も一本を吸いきったことはない。それなのに今はこの煙の匂いをかいでいたい。もう少しこの煙に巻かれていた。
 灰がポトンと膝の上に落ちた。ボクはそれを吹き飛ばす。
「おそ松兄さん、タバコもう一本ちょうだい」
「もーねえよ」
 最後の一本に火を点けながらおそ松兄さんは答える。
「じゃあそれ半分」
「やだね」
 畳の上に棒みたいみ真っ直ぐ倒れてた十四松兄さんが、その時突然上半身を跳ね起きさせた。何かの人形みたいにビヨーンって音まで立てて。
「赤塚先生、十歳?」
「そうだね」
「昔のおれたちと一緒じゃね?」
 そう言えばそうだなあ。ボク達が白黒テレビの中で遊び始めた時、ボク達はまだ十歳だった。それからずっと十歳だったし、去年の秋二十七年ぶりにテレビに出た時もまだもうちょっとだけ十歳だった。
「会える?」
「…難しいんじゃない」
「どして」
「赤塚先生が生まれたのは満州だよ」
「マンシュー」
 十四松兄さんの口からヨダレが垂れる。おまんじゅうじゃないったら。そう言えば十四松兄さんは今朝から何も食べてないんだっけ。お腹空いたって喋るの疲れたからって寝てたんだった。ボクは十四松兄さんのヨダレを拭ってやって窓のそばに立つ。もう辺りは暗くなり始めている。街灯もない。隣の家に電気がついてるのも見えない。戦争中ってそうなんだっけ。電気を黒い布で覆って光が漏れないようにするっていう。だって明るいと空襲の的になるから。
「よく覚えてんな」
 口から勢いよく吐き出したタバコの煙をチョロ松兄さんの後頭部に直撃させるおそ松兄さん。チョロ松兄さんは煙の中で目を細めている。咳き込むのを我慢してる。
「だってボク達の生みの親だし?」
「俺、覚えてなかったわ」
「赤塚先生東京にいないの? マジで?」
「マジだよ、十四松兄さん。赤塚先生が日本に帰ってくるのは…帰ってくるっていうのはおかしいかな、満州で生まれたんだから。とにかく戦争が終わってからだよ」
「トド松…満州ってのは遠いのか…?」
「そこから? カラ松兄さん今すげえカッコつけたけど満州のこと知らないよね? 明らかに知らないよね?」
 ボクがツッコむとおそ松兄さんも一松兄さんも十四松兄さんもへらっと笑った。あ、全員分かってないんだ。
「満州…」
 低い呟き。すっかり薄暗くなった中、チョロ松兄さんが少しだけ顔を持ち上げてボクを見る。
「チョロ松兄さんまで知らないの? 最近こういう時のツッコミ役が全部ボクになってない?」
「トド松、トキワ荘が建ったのは昭和何年だ」
「え……突然言われても分かんないよ」
「昭和二十七年だ。住所は豊島区椎名町五丁目」
「自分で言えるじゃん…。っていうか今は関係ないでしょ。そもそもボク達の漫画が描かれたのは赤塚先生がトキワ荘を出た後じゃない」
「連載開始は昭和三十七年。最初のテレビが始まったのは昭和四十一年…。どうして僕達は昭和二十年に存在できるんだ?」
「知らないよ。SFじゃよくあることなんじゃないの?」
「きっと理由があるはずだ。僕達がこの時代に存在してることの意味が……!」
「ねーよ」
 ゴッ、て重たくて硬くて痛そうな音が響く。おそ松兄さんの踵がチョロ松兄さんの脳天にキマってる。
「よく聞けチョロ松、俺達が生きてる意味なんてない!」
「おそ松!」
「お前がどんだけ悩んでも理由をこじつけてもそんなもんはない! これっぽっちもない! お前が童貞卒業できる可能性くらいない!」
「待てい!」
「生きてる意味とかどうでもいいから。ねえもん考えても何も始まらねーから。俺はこの時代でも楽しくやるぜ?」
「それはただの無責任だ、おそ松…!」
 怒ると呼び捨てになるチョロ松兄さんの癖。あー死んだかもなと思って見てたら案の定、おそ松兄さんがパーカーの襟首を掴んだ。ほら、殴られる。
 でもボクの予想は外れておそ松兄さんは殴らない。チョロ松兄さんの鼻先ににやーっといやらしく笑う。
「そのとおりだ。無責任で意味もない。だって俺はおそ松だからな」
 距離的には自然に、タイミング的には突然に、おそ松兄さん的にはまるで当たり前みたいにおそ松兄さんは更にぐいとチョロ松兄さんの首を引き寄せてキスをする。薄暗くて埃くさいお茶の間。窓から振り返るボクには外にちょっとだけ残った夕陽のカケラとか星の光かな、そういうのにうっすら白くおそ松兄さんとチョロ松兄さんのキスシーンが見えた。優しいキスしてるなあ。あれで慰めようとしてるんだ。チョロ松兄さんなんか今にも泣き出しそうだよ。っていうからキス終わったら泣くだろうな、あれ絶対ファーストキスだし。
「さむ」
 横になっていた一松兄さんがもぞもぞ動く。
「オレが温めて…」
 広げた腕で肩を抱こうとしたカラ松兄さんを無視して一松兄さんは立ち上がる。
「二階見に行こ、トド松」
「十四松兄さんも行こう」
 頷いて十四松兄さんはついてきた。お腹が空いてて足がもつれてるけど何とか大丈夫そう。カラ松兄さんは放っておけばついてくる。ボク達は悩める三男と嫌がらせしながら甘やかす長兄を置いて二階に上がる。
 ボク達の子供部屋も、隣のとうさんとかあさんの部屋も空っぽだ。当たり前だよね。引っ越しの時に荷物は全部持っていくか捨てるかしたんだから。ボク達の部屋を見上げて十四松兄さんが、板がない、と指さす。
「サーフボード? あってもしょうがないじゃない。何に使うつもりだったの」
「武器?」
「武器って…」
「弾よけ?」
「今はちょっとリアルすぎ…」
「布団」
 押入を開けた一松兄さんがボク達を手招きする。確かに布団が三組あった。そう言えば引っ越しの時、チョロ松兄さん達が布団を軽トラックに積んでいた。あの残りか…。引っ張り出してみると黴臭いような冷たい匂いがする。でもこれで今夜は凍えずにすむ。
「さっきから寒いよね。ボクだけ?」
「やっぱりか」
 と一松兄さん。
「温暖化ってマジだったんだな」
「別に平成が常夏の島みたいに暮らしやすかった訳じゃないけどさー。後で暖房つくか試してみる?」
「落ちるかもな。多分電力足りねえよ」
 でも布団が三組じゃ足りない。一つの布団に二人入っても絶対にはみ出る。部屋のあちこちを掻き回すと古新聞とかダンボールとかいらないものが出てきた。普通だったらゴミだけど今だけは助かる。それを床に敷いて、ちょっと横になってみる。
「あ、意外とあったかい」
「マジだ」
「ニュースペーパーに命を救われる日が来るとはな…」
「あんまり面白くねえぞクソ松」
 ダンボールを畳の上に敷いて上から布団を被ると結構暖かかった。今夜はこれでしのぐしかないなあ。明日からどうするんだろう。ご飯とか。平和な世界でも就職できなかったのに戦争中とか仕事できるんだろうか。
 階段を上ってくる音。暗い中布団の中で息を殺して待つ。黒い人影が入口に立ったところで四人いっぺんに立ち上がって脅かすとおそ松兄さんは尻餅をついて、チョロ松兄さんは折角上った階段を真っ逆さまに転げ落ちた。ボク達はどっと笑った。
「チョロ松兄さん、死んだ?」
「殺すな! カラ松が屋根から落ちてもしなねーのに俺が死ぬかボケ!」
 チョロ松兄さんって怒るとおそ松兄さんと口調が似てくるよね。まだ怒ってるっぽいけど一発殴る元気もないでしょ。本気出したおそ松兄さんなら童貞を腰砕けにするくらい朝飯前だもん。いつもする分には別に特別上手っていう訳じゃないけど、おそ松兄さんのキスは時々クる。
 結局電気もエアコンもつけなかった。ボク達は暗くなったら寝る仔犬みたいに、新聞紙とダンボールを寄せ集めた上に横になり上から掛け布団と敷き布団をかけて寝た。多分まだ七時か八時くらいじゃないかな。すごく早いけどボクもお腹空いた。手を伸ばしてもお菓子なんかない。それどころかちょっとコンビニに買いに行くこともできない。あれもない、これもない、出来ない、分かんない、起きてても不安に押し潰されるだけだからボク達は目を閉じて眠る。隣からタバコの匂いがする。ボクはおそ松兄さんのパーカーを掴んで引き寄せる。自分からキスをする。どうした、とおそ松兄さんが囁く。
「妬いた?」
「タバコの匂いが欲しかっただけ」
「嘘つけ」
「信じてよ」
 もう一回だけ、キス。おそ松兄さんの背中の向こうでチョロ松兄さんが起きてるけど、ごめんね。本当にボク、今夜だけはこの匂いがなきゃ眠れないんだ。






2016