駱駝と針の奇譚 5




 窓の外で夜の相模湾が音を立てた。海が低く唸った。夜空もその下に広がる海も真っ暗で青より黒く深い景色が広がっていた。熱海のホテルはその中にぽっかり浮かぶ温かな直方体だった。大きな薄型テレビから静岡のバレンタイングルメマップを紹介する地元芸能人の声が聞こえる。カラ松と十四松が肩をぶつけ合いながらテレビを観ている。既に人の手で広げられた布団の上、僕は床の間の小さな抽斗に入っていた聖書を開いている。すると暗い海が鳴って僕の耳元にはイエス・キリストが囁いた。
 金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ容易い。
 僕は今ラクダの気分で見慣れた懐かしい坂道を歩いている。僕らは金持ちじゃない。僕は一昨日駅前のレンタルビデオ店のバイトを辞めた。隣を歩くカラ松は無職だ。僕らを引き連れて歩く十四松が三ヶ月間稼いだ金も全部遣いきった。完全に一文無し。収入どころか今日これからのご飯、昼食の時間はとっくに過ぎたから夕飯や、せめて渇いた喉を潤すための水をどうやって買えばいいかも分からない。そう言えば水をお金で買うのが当たり前になったのはいつからだろう。二十七年前はそんなことはなかった。
 イエス・キリストの囁きが本当なら金持ちじゃない貧乏人の僕らにしても、天国に入るのはラクダが針の穴を通るくらい大変だろう。懐かしい日々は徳を積んできたとはお世辞にも言えないし、チビタやハタ坊なんかは正直いじめてた自覚がある。折角成長したけど親の臑を囓ってニート暮らし。僕も働かなきゃ働かなきゃって言うことで常識人としての資格を得たつもりになってただけで実質ニートだった。働かなきゃ生存する権利もないのか? 僕らは人権を得られないのか? 演劇部時代のカラ松みたいに仰々しく訴えかけても一言で論破されるだろう。勤労は日本人の三大義務。
 もう生きていくアテがない。でも僕は新橋駅のホームからカラ松を突き落として自分も飛び込むなんてことはしなかった。
「行こ」
 十四松がそのたった一言で僕とカラ松を引っ張って外へ出た。ラクダは針の穴を探している。大きくなりすぎた身体も通れるような針の穴。僕らは歩き続けた。そしてこの坂道まで来た。
 僕とカラ松は顔を上げた。そして二人とも懐かしい気分になったはずだ。僕らはその建物を見ただけで誰の家かが分かった。実際に表に出てるのはドクターラボっていう文字だから家じゃなくて研究所なのかもしれない。でもそんなことはあんまり関係ない。壁を彩る水色と青のストライプ。エントランスに張り出したシェードは鼻ヒゲだ。屋根まで、特徴的にぽっこりした頭の形そっくりに作られている。
「たのもー!」
 十四松が声を上げた。
「たのもー!」
 今時? そんなツッコミが頭に浮かんだけど黙ってる。十四松の声に反応するみたいにすぐ遮光のスライディングドアが開いて、裸足の足音がそれなりの重みを持って近づいてくる。デカパンだ。この三ヶ月、すごく遠い世界の人になった気がしてたけど確かにデカパンだ。そうだよ、僕らは同じ世界に住んでるはずなんだ…。
「こんにちは、デカパン博士」
「こんにちはだス。また来ただスか」
 僕の隣でカラ松が顔にクエスチョンマークを浮かべた。そうだ、こいつは引っ越した後ほとんど他の家族に会ってないから一松のニャンコが人の心が読めるエスパーになったあの事件のことを知らないんだ。事件の発端は十四松だった。この事件があるまで知らなかったけど、十四松は僕が知らない間にも結構一松に会いに行っていた。このラボを訪れたのはその時で、猫の言葉が分かる薬を一松にあげようとしたのだ。結局相手の心が分かる薬は一松ではなくニャンコに注射されて、面白がったおそ松兄さんが別居してる僕も呼び出した。でもカラ松は呼ばなかった。どうしてか…すぐに想像はつく。事件の中心にいたのは一松だった。一松が拒んだんだ。しかもエスパーニャンコは一松が心の底に隠して知られたくなかった本当の気持ちも暴露してしまった。寂しい。友達がほしい。自分に自信がない。でも今のままでいい。だって僕にはみんながいるから。これを聞いた時はさすがにちょっと気まずかったけど同時に内心嬉しかった。僕らが兄弟であることにホッとした。一松が兄弟だってことがこんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。そしてカラ松がいなくて本当によかったと思った。もしこれをカラ松が聞いていたら号泣して一松を抱き締めかねなかったし、一松はカラ松を殺して自分も死んだ。きっと。絶対に。
 中に案内されながらカラ松が僕を見る。僕はだんまりを決め込むことにした。
 ラボの床はひんやりしてるのに空気はほわっと暖かい。一列に並んだ大きな照明器具の下では不思議な植物が水耕栽培されていた。緑色や黄色、紫色の植物からはミントみたいな爽やかな香りがして、それが時々空調の風に運ばれて鼻の奥から肺まで入り込んだ。それ自体が何かマシンやコンソールなのかもしれないUFOを半分に切ったような丸いテーブルに並んで腰掛け、ダヨーンが運んでくれた緑色のジュースを飲む。鮮やかなグリーンだったからメロンソーダかなと思ったら青汁よりも不味くて僕らはいっせいに床に吐いた。結局ダヨーンは隣の喫茶店にコーヒーを注文した。カップにはBJと書かれている。
「これ」
 僕は不意に思いついて尋ねた。
「ブラックジャックですか」
「ほえほえ」
 デカパンは何故か嬉しそうに笑った。
「ボンジュール。お店の名前だス」
「なんだ、そうですか…」
「ジュテーム」
「黙れカラ松」
「ほえほえ」
 デカパンはまた笑う。
「…何か?」
「いいや、君達が遊びに来てくれたのが嬉しいんだス。君らのお父さんとお母さんが離婚して、みんな元気がなかっただスから」
「生活の為にはしょうがないですよ…。余裕がなくて」
「君らだけじゃないだスよ。離れて暮らしてる君達の兄弟もだス」
「え?」
「おそ松も」
「兄さんが」
「スタバァでアルバイトしてるトッティも」
「トッティって誰ですか!」
「一松もだス」
 あは、と小さく十四松が笑った。僕には照れているように聞こえた。カラ松が軽く顔を伏せた。それだけならしおらしく見えるんだけど、片手で半分顔を覆う仕草がイタイからどうしてもしおらしくならない。
「デカパン博士、相談」
 十四松が手を挙げる。
「はいどうぞ」
「幸せになる方法って何?」
 哲学も社会学も経済学も宗教も文学も、この世界のあらゆるジャンルが考えてきた究極の問いの一つを十四松は無邪気に問いかける。いや、ただ無邪気なだけじゃない。多分、十四松も考え抜いてここまで来た。楽して暮らしたい。一生遊んで暮らしたい。僕らはみんなそう考えている。でも今十四松が尋ねたのは楽して暮らす方法じゃない。幸せになる方法。
 僕は不意に真顔になった。
「君の幸せは何だスか?」
 デカパンの問いと同じものが僕の中にも浮かんでいた。
 何だろう。何があれば幸せになれるんだ。金か? 金は欲しい。めちゃめちゃ欲しい。金があればバイトしなくてすむ。無理に働かなくてすむ。履歴書見て笑われたり変なインネンつけられたり理由もなく馬鹿にされるのを我慢してまで働かなくていい。寧ろ働きたいように働けるかもしれない。お金があればアイドル事務所を作って社長にもなれる。多分一番合ってる仕事だ。僕はそういう仕事をすべきなんだ。じゃあ金か? 金とアイドル事務所と未来のアイドルの卵? カラ松と十四松はどうしよう。いややっぱ金だろ。金があればあんな汚い四畳半に二人を放っておくこともない。僕らもマンションに住もう。夕飯だって小銭で買えるコンビニのおにぎりじゃなくてレストランに好きなものを食べに行ける。何でもできるじゃないか。金だ。金さえあれば…。
 思考と妄想の勢いはいつまでも続かなかった。僕はゆっくり瞬きをした。瞼の裏におそ松兄さんの意地悪な笑顔が見えた。僕に金をたかりに来るおそ松兄さん。でも嫌な気分じゃない。後ろにはスタバァの制服を着たトド松もいる。トド松も小遣いをもらいにくる。僕はトド松に小遣いを、ちょっと色をつけてあげる。一松が突っ立ってる。僕は一松を連れて猫カフェに行く。にゃーちゃんがコラボしてる猫カフェ。扶養の座でぬくぬくくらしてる兄弟に頭の中でお小遣いをあげたりして、僕は自分で馬鹿じゃないのと呟く。馬鹿じゃないの、僕…。隣を見ると十四松が目に一杯涙をためている。カラ松は眠ったように静かだ。
 目の前にクッキーが出された。BJと書かれた金縁の皿に山盛りにされたクッキー。いただきマッスルハッスル!と叫んで十四松が食べた。両手を使って凄い勢いで食べるから僕も負けじと手を伸ばした。
「カラ松」
 促すとカラ松も目の色を変えてクッキーに食いついた。しばらくはクッキーを囓る乾いた音、コーヒーを啜る音だけが響いた。白い光の下で僕らの勢いに押されるように水耕栽培の植物が揺れた。
 テーブルの上がすっかり片付いて、僕らは僕らの幸せについてデカパンに話した。デカパンは優しい目でうんうんと何度も頷き、大きなパンツの中から砂鉄の入った小さな箱と、ハンカチと、ゴルフボールくらいの鉄球を取りだした。砂鉄の上にハンカチをひらりとかけ、真ん中に鉄球を落とす。ドスッと重たい音がする。
「触ってみるだス」
 十四松とカラ松が僕を見た。僕は代表で手を伸ばした。鉄球を抓んで持ち上げようとするけど、想像した力加減では動かない。ちょっと力を加えると持ち上げることができた。
「どうだスか?」
「思ったより重いような…」
「砂鉄もボールも僅かに磁力を帯びてるだス。互いに引き合う力が働いてるだス」
 デカパンは鉄球を取り上げた。
「このボールは君、砂の箱は地球、宇宙、もっと言えば君らを包む世界そのものだス。君らは想像したことがあるだスか? 地球はグルグル自転してるのにどうして自分が振り落とされないのか。とても孤独な夜にも朝が来て、動き出した社会の中にいるのが不思議だと思ったことはないだスか?」
「あり…ます…」
「それは君と地球が、君と世界が引き合ってるからだス。磁力は君から出てるものだけじゃあないだス。いくら一人ぼっちだと思っても地球からも磁力は出てるだス。地球が君を離さないだス」
 お説教じゃないだスよ、科学の話だス、とデカパンは言った。
 ダヨーンが太陽系の模型を運んできた。大きな模型だ。僕らの頭の上を同心円状に輪っかが広がっている。真ん中にあるのが太陽。一番小さな輪が水星。次が金星。その次の青い星が地球。そうやって海王星まで広がった輪がスイッチを入れるとゆっくり回転しだした。っていうか速い。ゆっくりに見えたのは最初だけで、実際頭の上を通り過ぎる天体はブォンと音を立てた。
「もう少しスローにするだス」
 言われてダヨーンがタブレットを操作するとスピードが落ちた。デカパンは小さな椅子の上に立ち上がって、ほいっ、と地球を抓んだ。模型全体が止まった。
「これが今一瞬の状態だス。君達はここにいるだス」
 十四松が頷く。
「人が過去に戻れないのはどうしてだと思うだスか?」
「フ……人は前を向いて歩くしかないから、だ」
「カラ松今は大事な話してるから」
「割りと正解だス」
「ええー!」
 デカパンが手を離すとまた地球は太陽の周りを回り始める。地球は僕らの頭を通り過ぎ、一周してまたデカパンの手に捕まった。
「例えば君達が五分前の世界に戻ろうとするだス。君達はここにいて、五分時間を巻き戻すだス」
 人差し指を地球にくっつけたデカパンは、五分戻るだス、と地球を公転と逆方向に動かした。
「あれ?」
 十四松が首を捻った。
「地球がない」
「ないだス」
「そうか、五分前の同じ場所に地球はないから、もし過去に戻ろうとしたら時間を溯る手段だけじゃなくて、溯った地球上の同一地点が宇宙空間のどこに位置するのか正確な座標を割り出す方法とそこへ移動するための物理的手段も必要になるのか」
「うっわチョロ松兄さんスゲー」
「さすがだ、マイ・ブラザー」
「もっと褒めてくれてもいいけど、それじゃ、デカパン…」
「タイムトラベルはなかなか難しいだス」
 僕らは再び動き出した天体模型の下で溜息をついた。
 幸せになる方法。
 僕らは幸せだったあの頃に帰りたい。松野家の表札がかかったあの家で兄弟六人と家族と一緒に暮らしたい。僕らはテレビの仕事で冗談で宇宙に行ったこともある。あの時は窒息死しかけたけど、そういう世界だ。タイムトラベルだってできるんじゃないか? 僕らはそう期待した。パンツの中から色んなものを取りだして見せるこの不思議なオッサンなら何とかしてくれるんじゃないか。
「考え方を変えてみるだス」
 がっかりした僕らにデカパンは続けた。
「君達、光の速さは知ってるだスか?」
「一秒間に地球を七周半するっていう、あれですか」
「そうだス。光の速さで一年かかる距離が一光年だス。今分かってる一番遠い星は三一九億光年離れてるだス。君達が夜見上げる星の中には、とっくの昔に死んで消えてしまった星もあるだス」
「本体が消えても光だけは届く…」
「我々には今も星が存在するように見えるだス」
「…まるで過去に触ってるみたいだ」
「宇宙は生まれた時から物凄いスピードで膨張してるだス。今も膨張し続けてるだス」
「ボーチョー?」
「大きく膨らむことだよ」
「ヤバイ」
「うん、ヤバイよ。カラ松が涙目になってるからやめてあげて」
「はい」
「と言うことはだス」
 デカパンは回転する天体模型を指さした。
「地球も明日は同じ場所を回ってないということになるだス」
「うわそれもっとヤバイ…、つまりこういうことでしょ? 今、たった今この瞬間はこの公転軌道を回転してるけど、明日になったら今日の火星の位置にいるかもしれない。そういうことだよね?」
 満足げにうんうんと頷くデカパンだけど、これは大問題じゃないか。自転によって変化する地表面の位置、公転軌道上の地球の位置だけじゃなくて、さらに宇宙の中心から外側に向かって移動する位置も求めなければ僕らが望むタイムトラベルはできない。
「…無理ゲーすぎ……」
「君は真面目だスなあ。こっち見るだス」
 指さしたのは砂鉄の詰まった箱とそれを覆うハンカチとその上にドスンと載った鉄球。
「君らは今地球の上にいるだス。地球と互いに引き合ってくっついてるおかげで、自転しても公転しても宇宙が膨張するのと一緒に地球が動いても振り落とされずに一緒に移動してるだス」
 促されて鉄球に触る。動かそうとするけど抵抗がある。この鉄球自体は指で抓める程度の重さなのに。
「ちょっと触っても動かないだスな」
 じゃあこうするだス、とデカパンは鉄球の上に手を滑らせた。分厚い掌が通り過ぎると鉄球がズ、ズ、ズ、と音を立ててその場で回転し始める。回転するのと一緒にハンカチが捻れて渦巻き模様を作る。やがてシュルルルルと小さな旋風のような音を立てて鉄球の回転は高速になった。デカパンが鉄球の下からそっと箱を引き抜く。ハンカチがはらりと落ちる。鉄球は空中で回転を続けている。
「浮いてる…?」
「これがわスの現在考えているタイムトラベルの理論だス」
 僕は鉄球に触れた。触った途端に鉄球は回転を止めて僕の掌に落ちてきた。
「ボールは砂鉄の磁力から自由になって、その場で待っていただス。そこへ君の手が迎えに来たので、君の手の中に移動することに成功しただス」
「高速回転によって僕らと世界の磁力を切り離す」
「フリーダム」
「おほっ」
「でも切り離しただけじゃ駄目だ。僕の手がその場に留まっているボールを掴みにいったみたいに向こうから何かがこないと…」
「テイク・ミー・ハイヤー」
「ティラミス!」
「過去が向こうからやって来る…!」
「なっ…チョロ松、オレより格好いいことを!」
「何なに!」
「その場で待っていれば過去は向こうから来るんだよ。いいか、宇宙は膨張してるんだ。っていうことはテレビ放送が始まった四ヶ月前とか昔の二十七年前とかの地球の情報はここより宇宙の中心に近い場所から外側に向かって移動してる途中なんだよ」
「そうなのか!」
「そうなんですか、デカパン博士!」
「わスの現在の理論ではそうだス」
「スッゲェ!」
 十四松がその場で回転し始めたけど、流石の十四松でも磁力から切り離されるほどの回転はできない。ぜーぜー言いながら床に転がった。ダヨーンがクリームソーダを運んできてくれた。僕らは子供のようにそれを食べた。
「必要なのは箱だと考えているだス」
「箱…ですか…?」
「区切られたもの、世界とタイムトラベルするものを隔てるもののことだス」
 最適な箱を君達は知っているはずだス、とデカパンはにっこり笑った。






2016