駱駝と針の奇譚 3




 バスローブのまま寝やがった。
 四畳半には朝から陽が射さない。電気を点けないと真っ暗で何も見えない。今、電気を点けた四畳半に散らばっているのは僕の布団と、二人が食べた菓子パンの袋、十四松のパジャマ。そして白いバスローブだった。僕はそれを怒りまかせに玄関脇のバスケットに突っ込んだ。洗濯物が溜まっている。もう十日くらいコインランドリーに行ってない。そろそろパンツを裏表で穿くのも限界だ。行かなければならない。すごく…ムカつく。
 昨日バイトを辞めた。毎日イライラして帰ってくるくらいなら辞めてよかった。辞めます、と極めて冷静に言葉を叩きつけた筈なのに返ってきたのは冷笑だけで僕は怒りと悔しさのやり場のないまま、昨夜遅くアパートに帰ってきた。起きてばば抜きをしていた二人にバイトを辞めたとだけ言ってすぐに寝た。あれから何時間? 半日はたっぷり寝ていた。こんなのは久しぶりだ。
 十四松が昼間家にいないのはいつものことだけど、カラ松の姿も見えない。あいつがどこに行くんだろう。行くところなんかあるのかな。やることなんか…。釣り堀とか? それくらいしか浮かばない。またあのファッションセンスが根こそぎ失われた服を買いに行ったんなら殺す。僕らにはそんな余裕はないのだ。僕がまた無職になってしまったから。
 片隅に立てかけられたちゃぶ台を電気の下に据え、僕は座る。深呼吸をする。諦めてはいけない。腐ってはいけない。僕が仕事をしなければ明日には三人仲良く餓死する運命だ。昨日のことを思い出してどれだけムカついても、僕はこの真っ白な履歴書を文字で埋めなければならない。でも。
 松野チョロ松。
 名前を書いただけで溜息が出る。そりゃこの名前に二十年以上付き合って生きてるんだけど、最終的に放り出されたとは言え出産から既に前途多難だったはずの僕らを今まで育ててくれたことには感謝してるけど、とうさん、かあさん、もうちょっとなかった訳? ややこしい漢字を格好いいカタカナに無理矢理読ませるような名前じゃなくてもいいから、もうちょっと履歴書映えのする名前を…! いや、もし僕が東大や慶應を出て就職活動をするならこの名前も面接官の記憶に残るスパイスになったかもしれない。寧ろ有利に運ぶ可能性もあっただろう。持てるカードで勝負するのが格好いい生き様だけど、でもバイトの面接では侮られるのがオチだ。
 チョロ松。
 別に嫌いじゃないんだけど。
 兄弟全員が僕をこの名前で呼ぶ。とうさんとかあさんもこの名前で呼ぶ。トト子ちゃんも。次の握手会でにゃーちゃんが僕のことを(良い意味で)覚えてくれていたら、その時呼ぶ名前もきっとチョロ松だ。
 我慢して学歴まで書いたけど手が痛くなった。僕はさっきバスローブをぶち込んだバスケットを抱えて外へ出た。風はそれなりに冷たいけど玄関を出た瞬間「寒!」と声を上げるほど寒くない。十二月に入るのにあんまり冬らしくない景色だった。まだパーカー一枚で外を歩ける。
 平日の昼間だけどコインランドリーは結構回ってる。僕は途中のコンビニでとってきた求人のフリーマガジンを捲る。コインランドリーはちょっとだけ暖房が入っていた。やっぱり外は寒いんだ。四畳半も。このくらい暖かければイライラせずに履歴書が書けるのに。
 洗濯機は回ってるけど待っている人はいない。真ん中に据えられた大きなテーブルの上にボールペンが忘れられている。僕は求人誌の最後に付録でついていた履歴書を丁寧に切り離してその場で書き始めた。駅前のレンタルビデオ屋が求人を出している。これは先週までなかった求人だ。まだ残り時間に余裕があるのを確かめて僕は駅前に走った。走って来た勢いと熱意だけで面接してもらい、明日から行くことになった。駅裏のレンタルビデオ屋を辞めた昨夜は、あと一週間くらい傷を舐めて暮らすつもりだったのに。それもこれもカラ松のせいだ。
 カラ松は僕を抱くことを諦めていない。でもそれは恋愛感情じゃない。そもそも僕ら六人兄弟の中で誰もそんなものは持っていないはずだ。僕らは六つ子。同じ遺伝子で生まれた六つの身体。第二次性徴期の精神的な揺れは僕らに様々な影響を与えた。性的欲求を隣の身体で満たそうとしたり。若さ故のあやまちだ。ちなみにまだ若いからこのあやまちも続くところでは続いている。僕に誘いをかけてきたのは、おそ松兄さんだけだった。もちろん恋とか関係ない。おそ松兄さんは僕以外の兄弟にも声をかけたし、結構上手くやってた。本当に上手かったかどうかは知らないけど…。僕は一度もその誘いには乗らなかったのだ。だって、僕だよ? 六つ子の中では一番の常識人が止めないで誰が止めるのさ。世間的に不道徳な関係ってだけじゃない。その組み合わせも入り乱れている。おそ松兄さんと一番相性がいいのは末っ子のトド松だった。一松が受け身なのを許したのはカラ松だけだった。他には……ああ、もういいや…。みだりがわしいなんて一言じゃ片付けられないよ。
 ええと、何だっけ、おそ松兄さんの話じゃなくて。そう、カラ松。だからカラ松が僕を抱こうとするのはヒモでセックスの上手い自分っていうシチュエーションに酔ってるだけで恋愛感情どころか下手すると性欲とも無関係だ。あとセックスが上手かどうかは知らない。下手そう。っていうか五月蠅そう。ずっと喋ってそう。
 洗濯物を抱えてアパートに戻った僕はちゃぶ台の上に残した書きかけの履歴書を破って捨てようとして、思いとどまった。駅前のレンタルビデオ屋もいつ嫌になるか分からない。明日には後悔してるかもしれない。でも…そりゃ本心を言えば楽して暮らしたいけど…できれば駅裏のレンタルビデオ屋よりも長続きするといい。いつ辞めるかもって心配して夢でもうなされてカラ松に起こされるなんて、もう御免だ。
 夕方、部屋に斜めにちょっとだけ陽が射す。小さな日溜まりに座ってにゃーちゃんのポスターを眺めていると(その時僕の右手がどこにいってたかは言及しないでもらえる?)玄関が勢いよく開いて、ただいま!、と十四松の声が聞こえた。セーフ! 大丈夫! ズボンは履いてる!
 おかえりを言う声は動揺してたけど、それより驚いたのは泥だらけの十四松に支えられて、寧ろ引き摺られて玄関に入ってきたカラ松が十四松以上に泥だらけで背中に野球のバットが括り付けられていたということだ。
「おいおい十四松、無理だろ、コレは一松じゃないんだから…」
「うん。素振り九十九回で終わった」
「そんなにやったの!」
「百回やったら死ぬってカラ松兄さん言ったから」
 カラ松は今朦朧とする意識の中で自分の科白を心底後悔しているに違いない。でも道理で姿が見えなかった訳だ。そうだ、カラ松がいくらカラ松だからと言って一人で一松に会いに行ける訳がない。
 その時突然、前触れもなくカラ松が吐いた。革ジャンとラメのズボンと十四松のユニフォームのズボンとスパイクが茶色のドロドロしたものに汚れた。悲鳴を上げたのは唯一僕だけで、真っ先に処理に動き出したのも僕だった。二人から服を脱がせて、カラ松が自分の顔をプリントしたタンクトップを着てるのにもうツッコミを入れる暇もなくユニットバスの狭い浴槽にそれを叩きつけて一緒にカラ松も押し込んで上からお湯をかける。下半身を裸にされた十四松がまだ玄関に佇んでるから「お尻! お尻見えるから! ドア締めて!」と叫び、再び吐くカラ松の背中をさする。
 これが現実だ。品川駅で呟いた言葉を、僕はまた心の中に呟いた。でもあの時ほど暗い気分じゃなかった。カラ松のゲロをシャワーで洗い流しながら、明日駅前のレンタルビデオ屋に初出勤するのが嫌じゃなかった。今はちょっと、生きてる実感が気持ちいい。

 肩を揺さぶられる。寒い。
「あけましておめでとう、お正月だよ」
「十四松…?」
「とうさんとこ行こう、お年玉もらえるよ」
 こうこうと点る蛍光灯の光を背に満面の笑みの十四松が見えた。僕は瞬きをしようとするが目がうまく開かない。目を開けられない。
「…カラ松は」
「寝てる」
 起きよ、と十四松は僕の身体ごしに手を伸ばす。背中合わせに眠るカラ松を揺さぶって起こしにかかる。
 四畳半小さなテレビと卓袱台と布団と雑誌と昨夜食べたカップ麺のカラとビールの空き缶が犇めき合って、その中で一番場所を圧迫しているのが僕とまだ寝ているカラ松だった。
 正月だ。給料が入る前でケンタッキーさえ食べられないクリスマスが過ぎて東京は急に寒くなった。あっという間のお正月。テレビは初詣の様子を映している。いくら年始だって言ってもこんな朝早く、寒いのにわざわざ外に出掛けていくなんて。そりゃ上等なダウンとか持ってたら別だろうけど僕らは貧乏なんだ。一人のバイトの稼ぎで三人が生活してる。それにまだ大晦日の酒が抜けてない。
 でも正月だと思うと部屋のゴミゴミしたのが嫌になって急に暗い気分に陥りそうになる。僕はそれから逃げるように起き上がる。背後ではカラ松が、オレに太陽の光は眩しすぎる…オレは夜の底を這うのがお似合いな一匹狼だ…親なんて…、と戯言を呟いてはガン無視する十四松に肩をぐらぐら揺さぶられていた。
 狭いユニットバスで顔を洗い、暖色系の明かりの下でまじまじと自分の顔を見る。昨夜は二時まで仕事だった。今のバイト先である駅前のレンタルビデオ店は夜のシフトだって十二時までだけど年末年始はそんなこと言ってられない。初詣帰りの客がAVを借りて帰ったりするのだ。セックスは精力を身体から出してしまうから一月一日は御法度なのだ。そんなことも知らないで。ざまあ。帰宅しても案の定というかカラ松も十四松も起きていて、三人そろってカウントダウンも過ぎてダレてきたお笑い番組を見ながらカップの蕎麦をすすった。あとビール、ビール、バイト先の文句と愚痴とビール、あけましておやすみなさい。
 産まれてから二十年以上住み慣れた家を出て初めての正月。
 兄弟が半分しかいない正月。
 別に寂しい訳じゃないけど正月は親戚の挨拶回りをするのが社会人の常識だし僕は兄弟の中でも先んじてバイトを始めた社会人なのだから、ここは不甲斐ない次兄や世話の焼ける弟を連れて両親それぞれに挨拶に行くべきだろう。そこでお年玉とはいかないけれどおせちだとかお雑煮だとかがあればすごく有り難いし、ついでに貧しい正月の手助けになる諭吉を貰えれば更に更に有り難い。いやこのさい一葉でも英世でもいいから。
 そう言えば僕らがこの前テレビに出てた頃は英世じゃなくて夏目漱石だったんだよなあ。あの頃は歳を取ってこんなに苦労するとは思っていなかった。テレビの中でバカをやっていればずっと六人幸せに暮らしていけると思っていた。死だって想像したことがなかった。今は時々、する。ここで僕がバイトを馘になったらどうしよう。生活保護とか出るのかな。僕たち、この汚い部屋で死ぬのかな。
 僕はどかどかと足音を立てて四畳半に戻り(その距離たった一歩半)カーテンを開く、窓を開ける。冷たい空気が四畳半を蹂躙する。十四松が何故か嬉しそうな悲鳴を上げ、カラ松は布団を被ってまたもごもご言った。
「起きろよ」
 僕は布団を引っぺがすとカラ松を畳の上に転がし、容赦なくパジャマを剥ぎ取る。
「十四松、一番大きいスーパーの袋!」
「あいあい!」
「起きろカラ松!」
「あと五分…」
「じゃあ凍え死ね!」
 ゴミの分別なんか知るもんか。全部黒いゴミ袋に突っ込んでアパートの外に出す。それからカラ松が来てたパジャマとかその辺に十四松が脱ぎ散らかしていたパンツとかとにかくスーパーの袋に突っ込んでTシャツ姿で震えてるカラ松を引き摺って近所のコインランドリーに行く。一足先に出た十四松はわっせわっせ掛け声を上げて町内を一周した後でコインランドリーに入ってくる。
「チョロ松兄さん」
「ん」
「手、出して」
 言われるままに手を出すと、白い蝋紙に包まれたものを十四松はくれる。ちょっとあたたかい。
「お餅。公園で配ってたよ」
「お前それ、例の友達の……」
「町内会の餅つきだって」
 ホームレスの炊き出しは、今日は公園ではなく河川敷で行われているそうだ。
「寒いだろうにな」
 僕が餅を食べるのをカラ松が羨ましそうに見つめ、くしゃみをする。
「あんな汚い格好で行ける?」
 恨めしげな視線に僕は答えた。
「せめて清潔にしていけば少しは違うよ」
 客商売をするようになって気づいた事実だ。不潔か清潔か、それだけで人の印象は随分違う。まして人の評価なんて感情が九割左右するのだ。父さんもかあさんも僕らのことを嫌ってる訳じゃないけど、少しでも印象をよくするに越したことはない。
 それに。
 ぼくは十四松の鼻水が垂れそうなのをかんでやり、カラ松の目に目やにがついているのを指摘する。洗濯機にかける前ならよかったのにな。カラ松はTシャツの裾で目元を拭った。
 もし心中するにしたって。
 例えば僕が馘になっても、案外十四松はどうとでも生きてけるような気がする。もし一緒に死ぬはめになるとすればそれはカラ松だろう。僕にとっては物凄く不本意だ。カラ松も望んではいないと思う。だとしても、もしもの最悪を考える時、僕は目やにのついたカラ松の死体と一緒のところを他の兄弟に見つかるのは嫌だ。絶対に。
「いつものイタイ服でいいから、一番清潔なのを着ろよ」
「イタイって何だ…」
「十四松、帰ったらもっぺんシャワー」
「何で!」
「もう泥だらけじゃん」
「うん!」
 アパートに帰るとテレビが点きっぱなしだった。クソッ。働くようになってからはほんのちょっとの電気代だって惜しい。僕はテレビを消す。背後でカラ松がまたその辺に服を脱ぎ捨てるし、ユニットバスに飛び込む十四松のパンツが宙を舞う。溜息をつきたくなるがお年玉が貰えるかどうかの瀬戸際だ。爽やかさ、そして明るい笑顔! 今日の夕飯代は僕の双肩にかかっている。
 かあさんと残り半分の兄弟が住んでいるマンションは白くてちょっと小洒落てて、入口にはリースっぽいアレンジをしたしめ縄が飾られてるけど部屋に住んでるのは昭和臭の残るかあさんと僕の兄弟たちでちょっと安心する。あけましておめでとうフリーターとニート達。かあさんは笑顔で出迎えて、その後ろからおそ松兄さんがいつもと変わらない感じで、よ、と軽く手を上げる。トド松はコタツにもぐって「にゃ」と挨拶のつもりらしい声を上げるけどコタツに突っ込んだ手も出そうとしない。おじゃまします、と言いながら靴を脱ぐと、そんな他人行儀にならなくていいのに、とかあさんが言って新年早々ちょっとぐっときた。
「いてっ」
 後ろでカラ松が小さく声を上げた。一松がカラ松の尻を蹴った足で更にどついている。
「あんた達、この後とうさんのとこに行くの?」
「うん、一応挨拶しとこうと思って」
「お年玉をせびりにいくのね」
「そんなんじゃないったら」
「別に気にしてる訳じゃないんだけど、元気にしてるか見てやって。死んでても報告はいらないから」
「かあさん、正月からそんな…」
「それよりミカン、あんた達家にミカンはあるの、持って行きなさい」
 マンションを出る時、スーパーの袋一杯にミカンを貰った。本当はお年玉がよかったけど、これはこれで正直有り難い。かあさんはドアまで見送ってくれた。おそ松とトド松はコタツから出なかった。あれ、一松は…? 一松はマンションの前で猫と遊んでいた。帰る僕らに一言も声をかけなかったけど、カラ松の尻を蹴った。カラ松が気にしながら何度も振り返ると「もう来んな、クソ松」とボソッと言った。
 ちなみにとうさんは死んでなくて、三人まとめて一万円をくれた。僕らは弁当やでアツアツの唐揚げバスケットを買い、コンビニでアイスを一人二個ずつ選ぶ。夕方はちょっとしたパーティだ。
 唐揚げとアイスで満腹になったカラ松はそのまま横になって寝てしまう。十四松がその上に座布団を載せる。
「布団かけてやってよ」
 僕は薄っぺらいジャケットを羽織りながら言う。
「風邪引いても病院になんか連れてけないんだから」
「チョロ松兄さん、今日もバイト?」
「うん。冷蔵庫にシフト貼ってるだろ。見とけよ」
「いてら」
 ドアを開けて外へ出ようとした僕の臀部に十四松の尻が勢いよくぶつかった。
「ラッシャイ!」
「ん。行ってきます」
 夕方五時も回れば、外はもうすっかり夜だ。今日もバイトはラストまで。AVのバーコードを無表情に読み取る日々。僕は自分の尻をさする。ぶうんと低い音を立てて頭上に街灯が点る。僕は立ち止まり、父さんのお年玉のおつりからちょろまかした百円玉をコカ・コーラのベンダーに投入する。出てきたのは微糖のわりに甘いと評判のコーヒーで、それをペラいジャケットのポケットに突っ込み再び歩き出す。






2016