駱駝と針の奇譚 1




 照明に照らし出されたホール内の全てが白々と、生気のない色をして唯々存在している。プログラム進行中の、あの極限まで抑えられて影の青にさえ見える薄暗い照明の下ではどれもこれも高級なものに見えた。会場内にほどよく間隔をおいて配置された丸テーブルとそれを覆う真っ白なテーブルクロス。テーブルの上には皺一つなくて、襞を作って垂れ下がるそれは分厚くて適度に温かくて、目の前の現実が自分の鼻先から離れれば離れるほどテーブルクロスに触れた膝だけが妙に温かいのが非現実的だった。これは全部悪い夢なんじゃないだろうか。現代美術的な幾何学模様を描く絨毯はよく見ると染みや擦れがある。これも気づかなかった。他にもどうしてそんなものが落ちているのか、手帳を破った切れっ端、煙草の吸い殻、花束から落ちた花びら、うっすらと靴の形を教える砂。色々なものが見えた。どれも死んで見えた。舞台の前に佇んでそれを見下ろす僕も、二人の兄弟もだ。物言わぬ兄弟はそっくりの人形じみた静かさで黙って佇んでいた。合図を待っていた。
 松野家扶養家族ドラフト会議は高輪の、品川駅に近いホテルでそっくりに行われて第一回選択希望息子に挙げられて抽選までされた僕だが、今はカラ松、十四松と二人、誰もいないホテルに残されている。列席者はかあさんと他三人の兄弟達の記念写真だけ撮ってさっさと消えてしまった。印鑑は別の部屋で捺すからとかあさんを初めとする一団が出て行ってしまい、僕らはとうさんを探した。とうさんがここを取材に来ていた記者達と連れだってさっきの引き潮と一緒に出て行ってしまったのに僕は気づかなかった。交渉の余地なんか最初からない。とうさんはそれを貫いた。「娘ならまだしも、なあ?」誤魔化し抜きの潔い姿が一般的に尊敬に値するかはともかく、僕はちょっと安心もした。選抜面接とドラフト会議、二度にわたって選ばれなかった僕らが「あの、とうさん、相談があるんだけど…」養ってと言いに行くのはやっぱり気まずかったし、ここまでくれば僕らにも傷つく心はある。やんわり断られるより、ばっさり切り捨てられるより、黙って捨てられる方が目下のダメージは少なかった。
 両開きのドア二箇所が大きく開かれて清掃のツナギを来たおばさん達が掃除機とかを引き摺って入ってくる。まだ僕らが残っているので目を丸くして驚く。
「あっ」
 愛想笑いが浮かんだ。
「すぐ出ます」
 歩き出すと隣を同じ歩幅で歩き出したカラ松が、笑うな、と押し殺した声でひとこと言った。十四松は何も言わなかった。擦れ違うおばさん達にさえギャグを披露しようとしなかった。相変わらず口は笑顔みたいに開いているんだけど。
 ロビーに下りるとおそ松兄さんとトド松が喋っている。かあさんはドラフト会議の司会をしてくれたアナウンサー相手に笑ってる。エレベーターから出てきた僕らに最初に気づいたのは兄さんだった。トド松を小突いて僕らを横目に見るとプククと笑う。僕とカラ松は黙って少し離れた所を通り過ぎようとした。十四松だけが立ち止まった。
「帰んないの?」
「俺達はかあさんとタクシーで帰るから」
「おれ電車」
「気をつけて帰れよ」
「うん!」
 後を追いかけながら、タクシーだって、と十四松は言った。聞こえてるよとは僕は言わなかった。カラ松も黙っていた。既に扶養と別居で格差が生まれている。
 区役所に届けを出すのはいつになるだろう。明日? 早速? それもあり得る。でも僕らはまだ家を出る準備も出来ていないし、それは独り暮らしを始めるとうさんや、かあさんと扶養される三人の兄弟だって同じだ。家を売るのだって明日すぐに売って大金が手に入る訳でもないんだろう。
 低い雲が街明かりに照らされて空は明るい。昼間は時々雨が降る曇り空だったから、今の方が明るく見える。あんまりこっちに来たことないなと思う。それさえ心細い。品川駅のエスカレーターを上がって人混みの中で足を鈍らせていると十四松がさっさと改札を通ってしまった。後を追いかけようとしてカラ松の肩と強く、グイとぶつかった。
「ハッ、どうしたんだ迷子の子羊みたいな顔して…」
 僕は目を細め足を速めた。これが現実だぞと言い聞かせる間もなく現実が向こうから顔面に直撃してきた。今までも四六時中こいつらと一緒だったけど、これからの生活は。想像は生々しく具体性を増して僕の脳みそをガツンとやった。
 ホームに十四松がぽつんと立っている。僕はコーヒーを買って半分くらい一気に飲み干した。ここで疲れてらんないよ。家までかなりかかる。もっと近くのホテルとかなかった訳? その時、十四松がボソボソ呟いてるのに気づいた。
「…選択希望息子、五男、松野十四松」
 司会者の声マネ。表情まで作ってる。僕はベンチから十四松を眺めた。いつからこんな風になったのか分からない。正直僕ら全員無職で家でダラダラしてるからスルーできてたんだけど十四松はバカっていうか、メンタルとか色々子供のままショートカットして年齢だけ二十歳越えたっぽい感じが正直ヤバい。今僕が眺めてるのは、そのショートカットした部分、本当は十代の終わり、つまり僕らが受験とか就職に失敗したままダラダラしてる時に本当は成長すべきだった十四松、時空の狭間に消えてしまった二十歳のメンタルの十四松のように見えた。僕らがダラダラと流してしまった人生の決断、大学受験や就職。その中に消えた夢が今、ホテルの薄暗い照明、スポットライトに照らされた抽選箱、そういうものの余韻が残っている今だけ十四松に夢を見せている。ドラフト会議で指名される自分、あったかもしれないプロ野球選手という未来。
 隣にどっかとカラ松が腰を下ろした。
「一口くれ」
「自分で買いなよ」
 それでも缶を渡すと、残った半分の更に半分くらいを容赦なく飲む。喉を慣らして飲む。
「もういいよ、全部飲めよ」
 センキューっていう発音さえ腹立つけど今は怒らない。電車が来たら覚める十四松の幻を壊すことはない。こんなのは人生に一度きりだ。多分もう二度とない。おそ松兄さんの吸っていたタバコが懐かしくなった。一本欲しい。ライターで火を点ければ、僕にもわずかな時間を慰める夢が見られるかもしれない。夢。夢だ。十四松が過去になくしたみたいな夢が、僕にもあったはずだ。
 でも僕は思い出せない。多分大学に行けたらそれがよかったはず。慶應ボーイとか。憧れた。あと今は無職でも東大出の無職なら格好良かったはずだ。何だろう。僕は何が欲しかったんだろう。僕の意識にはさっきからある事実が顔を出そうとしている。それを奥底に沈めるために僕は昔のことを思い出し、わざと表面を波立たせてその事実が水面に顔を出さないように必死だ。でも意識しないように努めれば努めるほど、そいつの存在ははっきりと形を成して心の内側のあちこちにゴツンゴツンとぶつかった。
 第一回選択希望息子、三男、松野チョロ松。
 とうさんとかあさんの両方から、僕を取り巻く世界から、こんなに求められたことがあっただろうか。お前が必要だと抱き締めようとする腕がこんなに近づいたことがあっただろうか。僕は人生初めての、唯一のチャンスに戸惑って結局への字口でその瞬間を過ごしてしまった。二人が手にした封筒の中にははんぺんが入っていて抽選は一時中断。インターバルを挟んだ後はすっかり空気が変わってしまった。僕の名前は二度と呼ばれなかった。
 僕にとっての一度きりの瞬間を、どうして僕は喜ばなかったんだろう。選抜面接で選ばれた途端に喜びにはっちゃけたおそ松やトド松みたいな真似が僕にはできなかった。にゃーちゃんのライブでは全力で叫べるのに。
 ホームにアナウンスが響いた。到着のベル。
「電車!」
 十四松が指さす。僕らはその後ろに並ぶ。
「どこまで行くの」
 電車に入った途端、両手で吊革に掴まる十四松に尋ねる。カラ松は勿体ぶって座席に座り、座った後も足を組み替えて両脇の客から迷惑がられている。僕は手摺りに掴まる。
「青砥」
「はぁ? そっから歩き?」
「うん」
「マジかよ…」
 家に変えるとかあさん達はとっくに着いてて、出前のラーメンももう食べ終わるところだった。とうさんはいない。
「チョロ松、鍵かけてきて」
「いいの?」
「鍵くらい持ってるでしょ。とうさんの家なんだから」
 何が食べたい、とかあさんは立ち上がる。僕はちょっと驚く。帰り道で既に格差が生まれてたくらいだ。ご飯も作ってくれないのかと思っていた。
「炒飯!」
 十四松が叫ぶと、俺も! ボクも! とおそ松トド松も便乗する。あれ、一つだけ空のどんぶりを残して…一松は?
 階段を踏む音がする。廊下に出ると一松の靴下が階段を上って消えていく。僕は玄関に鍵を下ろしてちゃぶ台に集った。帰ってくるまで一時間はかかったし、その上歩いたし、結局お腹が空いていた。我慢はできなかった。
 酔っ払って帰ってきたとうさんは鍵がかかっていると言って怒った。この物騒なご時世に鍵を開けていられるかとかあさんは言い返して、結局またすごい喧嘩になった。僕らはまだ下でダラダラしてて、揺れる天井に曖昧な不安の視線を投げていた。もう誰もそこまで本気になって心配はしていなかった。結局、だ。結局とうさんとかあさんは離婚するし、兄弟の半分は扶養されて、もう半分は放り出される。それはもう決定してしまった。品川駅前のホテルでサインと捺印をしてそれぞれの運命は別れたのだ。
 障子が開いて十四松が入ってくる。
「…何やってんの」
「ポーカー」
 おそ松が答える。
「上は?」
「寝てらんないよ」
「まざる?」
 一松は自分を誘った兄の隣に黙って腰を下ろした。ちょうど僕の正面だ。目は合わなかった。
 それから引っ越しをするまで、僕らは同じ屋根の下に目覚め、同じ釜の飯を食い、同じ部屋でダラダラして同じ布団で眠った。でもちょっとずつ部屋からガラクタが消えて代わりにダンボールが積まれ、気がつくと台所のテーブルには物件のちらしが何枚も散らばってるし、不動産屋が何度も訪れた。僕もその雰囲気に急かされるように不動産屋を回って安いアパートを探した。とうさんは餞別に敷金までなら出すと約束してくれた。僕一人で部屋を探すのは正直変な気分だ。こういう時いつもなら六人ぞろぞろ連れだって歩くはずなのに。だからってカラ松と十四松を連れて行っても話がまとまるどころか下見だってまともにできる気がしない。僕が行かなきゃ。
 ギリギリになって決まったアパートは四畳半で、三人で住むと言ったけど不動産屋は別に驚かずに淡々と手続きを進めてくれた。決めた後でカラ松が色々言ったけど、ぶっちゃけすぐに働けるの僕くらいでしょ。デザイナーズマンションとか住めるかっての。
 引っ越しの荷物はまとめた。あとは明日の朝、この布団を梱包するだけだ。かあさんは慰謝料で新しい布団を買うからと、この布団だけはもらいうけた。ロクな家電もそろってない部屋だけど、これで凍え死ぬことはないだろう。やることはやったよ。
「おやすみ」
 最初に布団に入ったつもりが、隣ではもう十四松が寝息を立てている。
「なんだよチョロ松ー、兄弟最後の夜だよ? 寂しくないの?」
 おそ松は布団の上に胡座をかいてまだ寝る様子じゃない。
「明日も早いし。起こすなよ」
「そんな意地悪しねえよ。優しいお兄ちゃんだぜ?」
 どうだか、と心持ちおそ松に背を向けて寝返りをうつ。いつもなら十四松側に寄るって危険すぎるけど、今日はもう熟睡してるみたいだ。瞼も動いてない。
「意地張っちゃって」
 指が背後から頬をつついた。僕はもう目を開けなかった。淋しがってるのはそっちじゃないか、おそ松兄さん。






2016