駱駝と針の奇譚 9




 俺は目の前の尻を見ている。肉が薄くってボロボロのズボンから見える毛深いスネも安いチキンより細いし、そもそも見た感じロクなもん食ってない浮浪者だから全身痩せてるんだ。で、そいつがボロボロの下駄をカランコロン鳴らして歩いてんのがまた狭くて汚い道でどぶ板の抜けたところなんかそのまま放置されてるから臭いし下駄は何度も落っこちそうになるし俺も足を突っ込みそうになる。主人公のおそ松様にこんなところを歩かせるなんていい度胸してんじゃねえか。もうこれ以上暗くなりようがねえんじゃねーのと思った袋小路の狭い木戸をくぐってやっと着いたと思ったら玄関がまた裏側に周っててどんだけ世間に顔向けできねーんだよと呆れたけど、そこに入ってって今から一発かまそうとしてる俺も同じくらい顔向けできねえし今から勃起してる俺の方が下手するとろくでもない。家ん中は薄暗くてどこも雨戸を閉めてんだろ。唯一明るいのは流しの上の窓だけどそれだって目の前には隣の家の塀が迫ってる。真っ暗な中黄色い光がキラリと出っ歯を照らした。なに、電気じゃない…カンテラ……嘘マジかよ、カンテラ? キャンプとかじゃねえよ? つかそんなリア充イベントガキの時以来行ったことないからマジ久しぶり見たんだけどそういうことはどうでもいい。とにかくカンテラに照らされたのはとっくに擦り切れてボロボロになった畳の海苔みたいに黒っぽくペタッと敷かれた布団だった。今からこの上でヤるのだ。俺は。イヤミと。多分俺たちが知ってるイヤミじゃないけど、この昭和二十年でイヤミ役をやってくれる男と。
 火を入れたカンテラを枕元に置いて振り返った男はやっぱりイヤミにしか見えない。イヤミは俺たちのこと誰が誰でも同じだと言ったが、こっちだって俺たちの周りに出っ歯の男がいればそいつがイヤミなのだ。平成二十八年のイヤミにこだわることはない。出っ歯で髪はボサボサでアバラ骨が浮くほど痩せてるイヤミはズボンだけ脱いで布団の上に四つん這いになり俺に尻を向ける。黙ってベルトを外しているとアレは持ってるザンスかって聞かれて後で物々交換だって言ったろムッとして言い返したら、ゴムざんす、おバカちゃんザンスねえ、と向こうもキレる。後ろ手に差し出された小さな包み紙を開けるとそこにあるのは確かに見慣れた形のコンドームで、形状的にはまあまあ見慣れてる感じなんだけどローションとかついてないし何よりぶ厚い。これに比べたらトド松の財布から出して使ってたコンマ03ミリとか親切設計にもほどがあるくらい薄かったのね。先っぽにちょこっと被せてクルクルやってるうち俺は猛烈に平成の東京が懐かしくなった。今までホームシックになんかかからなかったのにさ。童貞が平成のコンドーム懐かしがってんじゃねえよって? そりゃ、ま、そうだよ。赤塚先生が描いてた頃の俺たちがゴムのこと知ってたかっていったら、まあ小学生だし、いたずらっ子の俺たちはもしかしたらとうさんのコンドームを箪笥の奥から探し出して水風船にして遊んだだろう無邪気なレベルだし、平成の俺たちはおんなじ顔並べて全員クソ童貞だからトト子ちゃん相手に使いたいけど使えないってのが公式見解だろうけど、そこはさ、俺たちの生活の範囲内にいる出っ歯がイヤミになるのと同じ訳で、こういう文脈の中でなら俺はゴムについて語ったりもするし男とセックスもする。しかも昭和二十年のイヤミは初顔合わせの俺と簡単にヤるくらい尻軽だし穴はズベな感じだから突っ込む以外の選択肢がない。我慢我慢、どんだけ汚ぇケツでもこいつと一発ヤりさえすれば物々交換で欲しいものが手に入るんだ。
 病気の弟のために美人の姉が身体を売るってエロ漫画でもエロ小説でも深夜のエロコントでもよく見るシチュエーションを俺は自分がやると思わなかった。しかも自称医者のこの男が欲しがったのは俺の尻じゃなくてチンコ。イヤミのくせに見る目あるじゃん。突っ込むくらい楽勝楽勝、こっちは穴なら何でもいいもんねと思ってたら想像したよりイヤミのケツは汚くってここまでキープしてきた勃起がちょっと油断する。元気だせおそ松! がんばれがんばれおそ松! 目をつぶってトト子ちゃんのことを考えろ! だけど想像したのは何故かチョロ松のケツだった。ああっ、お兄ちゃんのチンコ入っちゃうよ!……とかバカか俺は。しかもイヤミのケツは突っ込んだら突っ込んだで中身は熱くて思わずおほーっと声を出してしまった。もぉー、マジで? でも勘弁しろよ、ただでさえ性欲のハケ口が兄弟間でしかなかった上に久しぶりのセックスなんだよ。昭和二十年に来て初めてだよ。むしろ毎晩トド松が甘えてきても我慢した俺のことを誰か褒めるべきじゃねえの? おほーって言うくらい赦してやってよ。
 どーしてセックス我慢してたんだっけ……。腰を振りながら一瞬頭がぼうっとした。操縦桿を離したのが最後だ。イヤミはぐぐぐっと俺のチンコを締めつける。アヌスがにゅにゅにゅにゅにゅっと俺を誘い込むように動いてどういう仕組みか分かんないけど先っぽがまたキュッと締められて、ああん、だめぇ!って叫ばされたのは俺の方だった。頭が真っ白になる。めちゃめちゃ気持ちいい。どぴゅうっと射精してる。なんかもうぴゅっぴゅ出てる。まだ出てる。もったいないって思うけど止めらんない。せっかくのセックスでヤり捨ててもいい相手、ヤるだけヤってやると思ってたのに五分ももたなかった。なぁにこの屈辱。賢者モード通り過ぎて墓穴に首突っ込んだ気分なんだけど。
「早く抜くザンス」
 急かされて、あ、はい…、っておとなしく引きずり出したチンコは完全に下を向いている。コンドームが行き場のない精子を溜めて重たく垂れている。イヤミはさっさとズボンをずり上げて、フン!とゴミ箱を指差した。ばいばい、俺の精子。なんか悪いことしたな。
 暗い玄関先で俺は農家から盗んだ玉子を三つイヤミに渡し、イヤミはまだ空襲で焼けてないそこそこデカい家のジジババの寝室の位置や使用人がいなくなる時間帯その他もろもろの情報を俺に渡す。
「取引成立ざんす。おたくの弟の診療には明日いくざんす」
「約束が違うじゃねえか」
「こっちにも準備があるざんす。薬もないのに病人は治せないざんす」
「ヤるだけヤってばっくれようってんじゃねえだろーな」
「それはこっちの科白ざんす」
 毛の生えた指でイヤミは俺のチンコを弾く。
「分かったら、チミ、とっととミーの家から出ていくざんす」
「お前みたいな奴にもう次の客がついてんのか?」
「何とでも言うざんす」
「なあ、イヤミよう」
 俺がイヤミと呼びかけてもイヤミは当たり前の顔をしている。な、やっぱりだよ。パンイチならデカパンだし、口が大きければダヨーンだし、こいつはイヤミなんだ。まあチビ太みたいなチビはそこら中に転がってて、逆にミスター・フラッグみたいな男にはなかなか会わないけどさ。
「その洋服、どこで買った?」
「おや、チミ、目の付け所がいいザンスね。これはおフランスの洋服ざんす。チミたちみたいに毎日なーんにも考えずに遊んで生きてるボウヤたちには分からないざんしょ。この国はもう駄目ざんす。ミーは貯めたお金でそろそろおフランスに帰るざんす」
「出会った時から思ってたけどさ、お前、このご時世にそれはヤバいんじゃないの? その喋り方も、おフランスもさ。逮捕されちゃうぜ?」
「鬼畜米英を竹槍でぶっ殺せざんすか? ウヒョヒョ、これだから田舎者の野蛮人はイヤざんす。チミもいつか分かるざんす。ミーが正しいということを、いつかチミは痛感するざんす」
「へー、そりゃ楽しみだな」
「期待してちょ」
 イヤミは俺のほっぺにブチュー!とキスをかましたが、これは明らかにいらなかった。俺は何度もほっぺを拭いて帰るなり台所の水を盛大に流して顔を洗う。
「遅かったね、どこ行ってたの」
 尻からチョロ松の声が聞こえた。
「おぶぜぷびびあじゅめぼ」
「こっち向いて喋れ」
「全員集めろ、会議だ」
 持ち帰った情報で俺たちは早速盗みの計画を立てる。つっても一松は腹を壊して寝てるから五人でだ。
「その情報あてになるの? 相手はイヤミなんだろ」
 チョロ松が唇をめちゃめちゃへの字にしてジトーっと俺を見る。クソ、最近こいつ生意気なんだ。俺のエロ妄想の中では尻を差し出したくせに。でもまあ俺は長兄様ですから? クソ生意気な口にも嫌な顔しないで計画を説明してやる。
「だからお前が入れ。情報どおりならチョロチョロっといただいて出て来いよ。もしも罠なら全力で逃げろ。その隙に俺とトド松が忍び込む」
「はぁ? ふっざけんな」
「十四松、いざとなったらチョロ松を投げてお前は全力で走れ」
「あいあいさー!」
「俺は……?」
 キャスティングの最後に据えられたカラ松が汗を浮かべて迫る。俺はその肩をポンと叩いた。
「俺たちは六つ子。お前はみんなで、みんなはお前だ。つまり、分かるな…?」
「分からない…」
「いいじゃねえか一晩くらい留置所にいたって。静寂と孤独がお前を待ってるぜ」
 一班、二班、人柱の役割が決まったところで早速実行。思いついたらすぐやるのが俺たち六つ子のいいところだ。こうやって軽率に事件を起こしては毎回子供たちを爆笑させお茶の間を沸かせてきた。しかも今回は大仕事な上、時代が時代だしすごくダーティ。漫画かアニメで見せられるんだったら忍者コスとかしたしさせたんだけど、俺たち五人ほんとチームワークがよくって、特に気づかれずに終わって普通に家に帰ったよね。
 月明かりを頼りにチョロ松が財布の中身をペラペラやってる。十四松はポケットとかトレーナーの内側とか、とにかく色々詰め込んできて、中には食糧とか砂糖もある。俺たちは久しぶりに角砂糖をしゃぶって涙を流した。次の日、騒ぎになる前に十四松とトド松は高そうなツボや絵皿を反対方向に遠い農家に売りに行って物々交換で足りなかった分の布団をもらい、チョロ松は闇市で栄養になりそうなものを買ってくる。俺は一松の横にいてイヤミが本当に医者らしいことをするのか見ていた。明らかにヤブ医者だけど薬は本物らしくて飲ませた後の一松の顔に血の気が戻る。俺たちの常識だとこの後もらえる薬は一週間分くらいあるけど、イヤミがくれた薬はあと一回分だけ。俺はまたチンコが出動できるように待機しないといけないみたいだ。ちなみにその頃筋肉…じゃなかったカラ松は庭に防空壕を掘っていた。一度平成のイヤミに騙されてブラック工場に送られた俺たちって実は労基法をオーバーするくらい働いてたしやれば出来る子なんだよね。帰ってきた十四松が内側を柱や梁で支えるのを手伝うと結構それっぽいのが出来て秘密基地みたいでワクワクすんねとキャッキャやってたら空襲警報が鳴り早速使うことになる。布団にくるんだままの一松を引き摺って二時間くらいじっとしていた。外に出た時にはもう夕方だった。結局B29は来なかったし腹減ったし身体べとべとするし。カップ麺食べたい、とトド松が女の子の前ではしないオッサンじみた顔で縁側に座った。
「チョロ松―、飯―」
「黙れ。僕はお前らが子供の頃壊した風呂釜を修理して風呂に入れるようにしないといけないんだよ」
「お前も一緒に壊したじゃん」
「飯食うなら働けってことだよ」
「もー、お腹空いてイライラしてるのにさ、ケンカやめてよね。ボクが作るよ」
 さすがトド松、とおだてると中指を立てられた。玉子とってくる!と大声で言えないことを小声で叫んで十四松が走り出す。カラ松はいつの間にか一松を背負っていなくなっていた。急に二人きりになった俺とチョロ松の間に夕日が射してあたりが静かになった。
「お前がしてる仕事ってさ、イヤミの汚いケツに突っ込むこと?」
 真剣な声だけど真面目じゃない。本気だけど嫉妬じゃない。そうだろチョロ松。お前めんどくさそうな顔してるよ。俺はへへっと笑って鼻の下を擦った。
「軽蔑してるって言ったつもりなんだけど」
「んなこと一言もゆってねーじゃん」
「じゃ、言うわ。お前の仕事、軽蔑してる」
「おかげで全員布団に寝れるようになったし久しぶりに砂糖食ったし一松の為にトリ雑炊作れるんだぜ? じゃあ、お前にできるのかよ」
「したくもない」
「飢死決定だな」
 ズザッと靴が庭の土を蹴る。あー、靴だ。いいな。こっちで町歩いてるとさ、聞くのって結構下駄の音なんだよな。からんころんってお祭りのこと思い出すけどそんな賑やかでもないし、露天の焼きそばの匂いもしないし。懐かしいな平成。チョロ松は俺の鼻先まで顔を近づける。無言。黒目が小さいからちょっと目を吊り上げただけで悪そうな顔つきになる。でもひるむ俺じゃねーよ。お前は三男、俺長男。ほら、何か言ってみろ。失望したとか、最低だとか、いつもみたいに偉そうにしてみろよ生意気三男。眉を吊り上げた俺の鼻息がチョロ松にかかる。ふんかー、ふんかーって時々前髪が揺れる。チョロ松の鼻息はほとんど感じない。息止めてんのか? あ、めっちゃすーすーした風、冷たい鼻息。
「俺となら餓死してもいいって思ってんだろ、チョロ松」
 低く囁くとチョロ松の腕がドンと俺を突き飛ばして、あとは怒った肩が玄関の方に消えていった。……俺、今なんつったっけ。なんか自分でも思ってなかったことを言ったような気がする。あいつツンデレだよな。知ってた。本当はめちゃめちゃ俺に似てるくせに大人になったら急にそれ否定してさ。まともなのは僕だけだって、笑わせんじゃねーよ。六つ子の悪魔ツートップは俺とお前だ。俺がダラダラ堕落すんのとおんなじくらい、お前の中身も俺と同じ場所まで堕ちてんだよ。気づけ。つか、気づいてんのか。
 ぼやーっと庭に立ってるうちに暗くなってトド松が、ご飯できたって言ってんじゃない何やってんのぼけっとしちゃってさ馬鹿なの、と淀みなく俺を罵倒する。毒気が抜けちゃって素直に、うん、って返事して歩き出そうとしたけどそこであっと気づいた。股間をぎゅっと握る。めちゃめちゃ勃起してるよ、俺。
 二階では一松がやっと目を覚まして砂糖水を飲んだって言ってカラ松がキラキラした目で星空を見上げる。うんよかったね、と適当に相槌打ちながら目でチョロ松を探すけどあいつ俺の視界から消えようとしてるみたいで、結構後ろめたいとか思ってるんだな、所詮三男って馬鹿にしてやろうと俺は家じゅう探し回る。トイレも容赦なく開けたけどいなかった。じゃああとは風呂場? まだ風呂釜修理してんの? アホじゃねーのあいつと思ったけど風呂場は真っ暗。でも息遣いが聞こえる。俺は、多分、それを聞き間違えない。
 風呂場のくもりガラスの引き戸に背中を押し付けて座ると、風呂場の中で同じようにしているチョロ松が引き攣りながら息を吸った。あとはどんどんピッチが速くなって息が上がる。俺は煙草が欲しいなと思いながら股間を握りしめる。このナイスタイミングに俺のチンコはくにゃっとしていて役に立たない。俺はガラス戸を開けない。背中でチョロ松のイクッイクッていう小さな呻きを聞きながら新聞のきれっぱしを丸めたやつをくわえている。クソまじい。吐き出して、立ち上がった。
 クソつまんねえ寝るかってだらけてたら足下に黒い塊があってビクッとする。真っ暗な階段の下でトド松が震えてた。
「チョロ松兄さんは…?」
 ちっちゃな声。
「シコ中」
「はあ、マジ役に立たない」
 一緒にトイレについてってやり中に入ろうとするけど押し戻される。
「いーじゃん。毎晩誘ってきたのお前じゃん」
「だーめ。一週間くらいは毎日歯ぁ磨いてキレイにチンコ洗ってくれなきゃ絶対やだ。あとお尻の穴も洗ってよね。何かついてたらヤだから」
「突っ込まれてねーよ」
「だとしてもヤなの」
「チューくらいいいだろ」
「だからそれもヤだって。もー、出てってよ、漏れちゃう」
 漏らせよ、と顎をクイッとやったら本気のグーパンが飛んできて廊下に激突、目の前でドアがバンッと閉まった。
「畜生、てめー」
 っていうかてめーら。
「覚えてろよ」
 っていうか褒めろよ、俺のこと。
 チョロ松みたいなことを俺は思った。俺とあいつは昔からすごく似ている。






2016.10.1