「グランドピアノ〜狙われた黒鍵〜」感想



 奇人としても有名な作曲界の重鎮パトリック・ゴーダルーには一人の若い弟子がいた。この映画の主人公、トム・セルズニックである。スイスでの二人の生活は芸術家としても、そして人生においても非常に実り豊かな時代であった。
 しかしゴーダルー最大の難曲『ラ・シンケッテ』の存在が二人の運命を変える。それは世界でただ二人、作曲者であるゴーダルーと弟子のトムにしか弾けないと言われた難曲であった。若き天才としてもてはやされていたトムはコンサートでその曲を披露するが、最後の四小節をミスタッチし完全な演奏は失敗、世間の嘲笑を浴び、本人も舞台恐怖症になってしまう。
 五年後、失意の日々から立ち直れないトムを妻のエマはとても心配していた。新鋭の女優である彼女がライトを浴びるほどトムは自信を失ってゆく。更に、昨年夏の師ゴーダルーの死去が追い打ちをかけていた。このままではいけないと思ったエマは自分の使える力を使い、トムに復活の舞台に立つよう促す。親友でありかつての仲間でもあった指揮者ノーマンの助力もあり、トムは師ゴーダルーの残したベーゼンドルファーのピアノで復帰コンサートをすることになった。
 プレッシャーに負けそうになりながらも電話での妻の励まし、舞台袖までずっと隣に寄り添ってくれたノーマンのお蔭で、トムは意を決して舞台に上がる。観客席からの期待の拍手。手に噴き出す汗。皆が固唾を呑んで見守るなかコンサートは始まった。
 五年間のブランクと最後のコンサートでの失敗に直前まで惑わされながらも、鍵盤に指を落とした瞬間トムの心は音楽に吸い込まれてゆく。自然と動く指を信じられない思いで見つめ、更に弾き進めるトム。このままコンサートは順調に進むかに思われたが、異変はトムにだけ分かる場所に起きていた。楽譜に赤い文字が書かれている。
「一音でも間違えたらお前を殺す」と。
その証拠のように手の甲にはポインタの赤い点が踊る。半信半疑のまま弾き進めるトム。ようやく最初の曲が終わった。舞台袖に下りたトムは謎のメッセージが指示するままに楽屋に戻る。そこには指示を伝えるためのイヤホンと、ついさっき撮ったばかりなのだろう、ボックス席から見守るエマをポインタの赤い点が狙う写真が何枚も携帯電話に送られてきていた。これは脅しではないのだ。
 舞台に戻ったトムは死に物狂いで弾き続ける。観客たちはうっとりとその音色に酔いしれるが、誰も、同じく舞台にいるオーケストラメンバーや親友ノーマンさえもトムの身に起きた異変には気づかない。鬼気迫るピアノの音色に引き摺られるように演奏はヒートアップする。それを遠くからスコープ越しに見つめ、うっそりと笑う男がいた。
 男は回想する。彼は腕のいい錠前師だった。昨年の夏、最高傑作を作り上げ、仕事を引退していた。その仕事こそ音楽会の巨匠ゴーダルーの依頼したものだった。
 死期を悟ったゴーダルーに身寄りはない。奇人というレッテル故に近づく人もおらず、また彼も伴侶や友を必要としなかった。弟子のトム以外は。ゴーダルーはこれまでの音楽生活で得た財産を人知れずスイスの銀行に預けていた。それを開けるために必要なものは一つの鍵。その鍵を安全に保管する為、ゴーダルーは錠前師に依頼したのだった。二人のアイデアで、保管場所はゴーダルー自慢のグランドピアノに決まる。しかしそれだけでは物足りない。資格のある者だけが開けられる仕組みにしよう。そこで考え出されたのが難曲『ラ・シンケッテ』を完璧に弾き終えた時、鍵を取り出すことができるというからくりだった。
 当初錠前師の男は鍵盤の動きとピアノ内部の運動さえ正確ならばそれでよいと思っていた。しかしゴーダルーの演奏を毎日繰り返し聞き、ピアノに細工を加えていく中で男の心境に変化が生まれる。ゴーダルーを敬愛し、音楽を楽しむ心が生まれたのだ。ピアノのからくりが完成した後、ゴーダルーは一度もそれに手を触れなかった。『ラ・シンケッテ』だけではない。ただの一曲も弾くことなくこの世を去った。男がどれだけ懇願しても。
 今、トムの演奏を見つめる男の中には財産への欲望以上にトムへの嫉妬が渦巻いていた。ゴーダルーがあのベーゼンドルファーを弾かない理由は分かっていた。彼はトムがピアノの前に帰ってくるのを待っていたのだ。ゴーダルーの沈黙はこう語っていた。もう一度帰って来い、トム。私にピアノを聞かせてくれ。『ラ・シンケッテ』を完璧に弾きこなした時、私の総てはお前のものだ…、と。次に男の胸に湧いた感情は憎悪だった。ゴーダルーは死の際まで側にいた自分ではなく、ピアノの前を逃げ出して見舞いにも来なかったあの若造を選んだのだ。ゴーダルー最後の願いは叶えてやりたい。しかし、あんなヤツにゴーダルーを渡してなるものか。あのピアノは自分の最高傑作であり、ゴーダルーとの思い出、そしてゴーダルーへの愛情の具現化だ。いくら財産が欲しくてもあのピアノを解体することなどできない。しかし恩知らずの若造に渡すくらいなら、自分がこの手で壊してやる。男の引き金にかける指に力が籠もる。
 ピアノを演奏しながらトムもまた昔を思い出していた。スイスでのゴーダルーとの日々。自分が今奏でている音色はまるでゴーダルーそのものだった。トム・セルズニックというピアニストはどんな演奏をしていたろうか。そんなことを自分でも思い出せないほどのゴーダルーそっくりの演奏。その時トムの脳裏に幼い日の記憶がフラッシュバックする。ゴーダルーそっくりの演奏をする自分の手の甲を、笞がピシャリと打ち据えた。ゴーダルーは何も言わず、怒った目で自分を見つめていた。当時はただただ恐ろしいだけだったが、今のトムは記憶の中のゴーダルーの表情に悲しみの色を見ることができた。
 コンサートの最後に用意されたのはピアノソロ『テンペスト』。その時イヤホンからしゃがれた声が聞こえる。指揮者の紹介を止めろ、お前が最後に弾く曲は…。しかしトムは男が最後まで言う前に立ち上がり、こう宣言した。
「最後の曲は『ラ・シンケッテ』です。ぼくは『ラ・シンケッテ』を弾く」
この曲を演奏し損じたが故に舞台を去ったピアニストがもう一度、師の難曲に挑戦する。客席からは感涙まじりの拍手が投げかけられ、指揮台のノーマンもトムの覚悟を知り、力強く頷く。
 コンサートホール中の人間、そして誰より犯人の男が見守る中、トムは『ラ・シンケッテ』を完璧に弾ききった。五年前ミスをした最後の四小節も完璧だった。
 万雷の拍手。ノーマンが近寄り力強く抱擁する。ボックス席には目元を押さえるエマの姿が見える。しかしトムと男の二人はただただ呆然としていた。トムは完璧な演奏をしたのに胸の空白が埋まらないことに。犯人の男はトムに重ねて在りし日のゴーダルーの姿まで幻視したのに完璧な演奏を終えたピアノから鍵が吐き出されないことに。
 観客も去り、明かりも消えた舞台にトムはもう一度戻ってくる。鍵盤に手を触れ、彼は考え続けた。何故、達成感がないのか。何故、笞を打つゴーダルーの姿が消えないのか。そこへ悲鳴。顔を上げると、見知らぬ男がエマに銃を突きつけ一歩一歩近づいてくる。男の声はイヤホンから聞こえてきた犯人の声だった。
 男はエマを人質にもう一度『ラ・シンケッテ』を演奏をするよう迫る。トムは自分にはこれ以上のものは弾けないと一度は拒んだのだが、男が本気でエマを殺そうとしているのを知りピアノの前に座る。
 弾くトムの中から、しかし脅されているという恐怖も消えてゆく。楽譜どおりの音を弾くのではない、自分の指が音を導き開花させる感覚にトムの演奏は熱を増す。トムの瞼の裏からはゴーダルーの笞打つ姿が消え、男の目からゴーダルーの幻視が消え去り彼はトムの演奏に心を惹きつけられるのを止められなかった。二人の興奮が最高潮に高まった瞬間、重低音の黒鍵の連打は楽譜を越えて一音多くなる。
 その瞬間、ゴーダルーとの思い出が一気に蘇った男はその思い出が余分な一音のために汚され壊されたのを知ってトムに銃を向ける。エマが庇おうとするが振り払われ、床で気絶する。
 ピアノを間に挟み睨み合うトムと男。しかし男はトムではなくピアノに向かって銃を乱射した。ピアノが破壊されるのを止めようとするトム。二人は揉み合い、最後は暴発した銃が男の手と喉笛を抉る。返り血を浴びてふらふらと後ずさるトム。男は蹌踉めきながらもピアノに近づき、本体の上に身を屈めると指の無くなった手で何度も何度も悔しげにワイヤーを叩く。やがてその拳も力尽き、男はピアノを抱いたまま絶命するのだった。
 警察に保護されたトムとエマ。救急車の後部に腰掛け騒がしくなった通りを眺めていると、ベーゼンドルファーが運び出されるのが見えた。トムは夢遊病のようにピアノに引き寄せられる。エマは止めようとしたが、何も言うことができなかった。
 コンテナの中で傷つき沈黙したピアノ。トムが鍵盤の上に震える指を置くと、天井から拍手のような音が降ってきた。雨がコンテナを叩いているのだ。トムは心を落ち着け、音の出ないピアノで最後の四小節に向かう。その時ふと、ゴーダルーの左手薬指の使い方には癖があったことを思い出す。トムはその薬指の使い方までそっくり真似て演奏していたのだ。
 今度こそ最後まで、そして余分な音を付け加えることなく弾ききったトム。(映画の)観客にも聞こえないが、トムの耳にはピアノがどんな音を立てたか分かっていた。憑き物の落ちた表情でピアノに背を向けるトム。
 その時、コトリと何か小さなものが床に落ちる音がした。



……っていう映画じゃありませんでした!