「あなたを抱きしめる日まで」感想



邦題の妙とは何ぞやと問いたい作品今年パート2。
原題は「フィロミナ」なんだけど、これは、まあこのタイトルでもいいかな別に。

生き別れの息子を捜す老いた主婦と、この記事に再起をかける記者の話なのですが、私、劇場に入る直前すれ違った老夫婦の会話から物語の重要な部分をネタバレして入ることになりました。
でも…ほら…真に面白い物語はネタバレしてても面白いんだから…元気だして行こうよ…。

で、生き別れた息子には会えたの?予告だとそこが一番の山場っぽかったけど?と思うのですが、そこは一山でしかなく、観客は関係者の更なる心の真実に迫らなければならなかったのです。

若い時代をアイルランドの修道院で過ごした主人公フィロミナ。
彼女は外で男性との交わりを持ち、子供を産むことになります。
修道院にはそういったシングルマザーの子供たちが多くいたのですが、そこでは子供がお金で売られていた。
しかも海を越えたアメリカに。
引き離されても自分の息子が幸せであるようにと祈り愛し続けたフィロミナ。
彼女と息子の再会の記事にジャーナリストとしての再起をかける男。
当事者と傍観者の二人が事実を一つ一つ目の当たりにしていく中で生まれる感情は同一ではありません。
最後にフィロミナは、自分の息子を売った修道女と再会する。
傍観者である男が修道女に対して激しい正義の怒りをぶつけるのに対し、当事者のフィロミナは飽くまで感情を抑え彼女を赦すと言います。
そして修道女は自分を裁くのは怒りをぶつける男ではなく神だと言い放つ。
この三つの感情は決して一つの善い解決へ向かうのではありません。
しかしフィロミナは修道女を赦すと言い、男はそれまでうんざりしていたフィロミナのおばちゃん的おしゃべりに歩み寄りを見せます。
それはそのまま観客の胸にも宿る。
赦せない気持ちも、赦すと言い切った感情も。
割り切れない中で人は寄り添う。

身に覚えのある人もいると思うんですね、純潔の誓いを守り通したのだと厳しく言い放つ修道女の感情。
「おんしゅう」という言葉は「恩讐」と書くけど「怨讐」とでも言いたい。
自分の知らない歓び(セックス)を知り、自分の知らない幸せ(子を持つこと)を知ったお前たちは、しかし咎人だと。
何故誓いを守る自分にそれは与えられないのか、お前たちを幸せにしてなるものかと。
キリスト教という宗教、またその神は信じる者をその胸に抱く懐の深い宗教だなあと思うのですが、その神に仕える人々はそうでもないよなあって言うか内側の寛容(柔らかさ)を守るために外部に対して硬質で、内部の汚染されたものに対して徹底的に不寛容っていうか。
故に信者自身が「赦す」という感情を持つことは貴重だと思う。

さてとこの映画の魅力ったらフィロミナと記者の遣り取りです。
この二人の会話の妙はまず予告編でも十分に発揮されているので、それだけでも楽しい。
いざ本編を見てみると、予告の字幕とは少し違うんですね。