「かぐや姫の物語」感想



これはまさしく『かぐや姫』の物語だ。
しかし観ている最中、強く思ったのはこれが女の物語だということだ。

同じくジブリの作品で本来同時期公開のはずだった『風立ちぬ』とこの作品を比較した時、前者が実に映画的に楽しめるものだとしたら、後者は大学の講義でたまたま参考にした資料が面白かったという感じである。
これは決してこの作品を貶める訳ではないし、映画として面白くなかったと言うつもりは毫もない。
面白さを感じた頭の部位が社会派作品を楽しむのと同じ部位だったと言うべきか。
『風立ちぬ』は妄想が止まらないが(本庄×二郎さんでお願いします)、『かぐや姫』は考察が止まらないのである。
確かにある意味『風立ちぬ』よりも大人向けかもしれない。大人向けという言い方が正しくなければ、この映画を幼い頃、また少女の頃に観た人は、大人になってもう一度観た時に別の泣き方をするのではないかと思う。

学生時代、講義で通読した『竹取物語』だが、想像していなかったほど細部まで原作に忠実である。
その上で空白が埋められている。
その空白こそ、かぐや姫自身である。
映画のフライヤー裏面に書かれていた高畑監督の言葉を見ても、彼がそれをこそ描くためにこの映画を作ったのだと分かる。
この映画はかぐや姫の人間性のなさへの解答、その一つの論文であるようにも感じられる。
原作においてかぐや姫の人間的描写はひどく欠落している。髪上げなど女の儀式を祝うのは養父母たちであり、熱心に求婚する皇子たちにもひどく冷淡だ。
映画でもかぐや姫の表面上の行動は原作の描写に沿っている。だがその内面には、表面の冷淡さとは真逆のあまりに人間的な感情が押し込められ、今にも殺されそうになっている。
その人間性を押し殺させたのは、娘という立場であり、女という役割を規定する社会だ。
かぐや姫はたとえ厳しさも求められる野山の暮らしであっても生きる実感を持った生をこそ望んでいた。しかしその願いは、もう取り返しのつかない終盤でしか口にはされない。かぐや姫はそれを言うことができなかった。社会だけにならかぐや姫は僅かなりとも抗うことができた。皇子たちの求婚をはねつけることができた。しかしどうしても逆らうことができなかったのは、社会的な女の役割の中での幸福を願ったのが彼女を愛し育んだ父親だったからである。かぐや姫は「娘」なのである。
故に、もしも皇子が本物の宝を手に参上したならば結婚せざるを得なかったろうし、御門の愛から逃れる術というのも月への帰還しかなかった訳である。
社会的役割により抑圧された女の生をまざまざと感じるだにつらい。この映画、実に細部が良く科白の端々にそれが滲んでいる。「寝間」しかり「側女」しかり。
そしてまたこの映画のいいところがかぐや姫は実にいきいきと動くのである。野山で、桜の下で、天地の間での踊るような生の謳歌は繚乱たるものであり、それを思い切り描くことにこの映画の作り手は力を惜しまない。その彼女が一転、顔を歪めさせ、表情をなくす様の描かれ方はゾッとするほど素晴らしい。

(描写する、とういことに重きを置いた作品でもあり、龍の頸の珠を探しに海へ出た大伴の大納言の末路は、私はナレーションが入るものだと思っていたが、その通りのものを描くことでおさめていた。この、言葉に頼らない描写にこの映画の力量を感じ入り敬服した。)

この映画で泣く人も結構いるという。
かく言う私も泣いたのだけれど、どこで泣いたかは結構人それぞれではないかな、と思う。
というか自分と親、特に母親との関係性によって後半から終盤にかけて涙を流すかどうかは分かれるのではないか。
私自身は後半、この映画が実に原作に忠実であることに驚きつつ、原作の解釈と再構築にほとんど興味を奪われていた。別の言い方をすれば地上や養父母との別れには心を動かされなかったのである。
『竹取物語』は物語の親と言われるが、竹の中から生まれてくる異類誕生談であり、結ばれる訳ではないが異婚譚でありと色々な性質を持っていて、一つにはかぐや姫を授かることで翁が冨を得るという致富譚である。
この致富譚は昔話でもよく見かけるパターンだから長らく疑問にも思って来なかったのだけれど、元月の住人、しかも高貴な身分である彼女のパワーの余波ではなく、月で待つ本当の親による親心だったのではないかと改めて思い至った。
それもこれも彼女がどんどん追い詰められていったのは悪意ではなく翁の親心だったんだなあ、という視点が今回はっきりしたからだ。
地上に落とされる仙女を謫仙(女)という。謫仙女は重い罪を犯したのではない。いずれ赦され、元の場所に戻ることが前提となって落とされる。
かぐや姫の月での罪も、下界に心惹かれたからというものであった。
そんな謫仙女であるかぐや姫が地上でも暮らしやすいようにという親心としての富であったとすれば、その富を得たが故に翁もかぐや姫を高貴の姫君として育てようと決心したのであり、地上に落とされたのも、そこで運命が変わっていったのも全部親心のせい…。
生まれたからには何とも関わりなしに生きることはできない。ここで親心なんて蹴飛ばしてやれとは言わないし言えない。かぐや姫も共感をくれた媼だけでなく、親心で自分の望みとは逆方向に走ってしまった翁、両親ともに愛情を感じているのである。
この歳になって繰り返すことの多い科白だが、実に人生とはままならない。

さて、かぐや姫の処女性にも触れておく。
御門に後ろから抱きすくめられた次の瞬間、彼女の顔がみるみる引き攣って悲鳴がほとばしるシーンは印象に残った人も多かろう。
人間見た目も重要だから御門の顎で「猪木…」「学園ハンサム…」と思うのは致し方ないとしても、ちゃんと見るとあのシーン、かぐや姫は琴を弾いていて垣間見する御門に気づいていない。勘づいていたならそれなりの描写があったと思うから、ここは気づいていなかったとする。
部屋には誰もいない、屋敷の中には家族と下女しかいないという前提で、一人琴を弾いていたらいきなり後ろから抱きつかれたのである。
そりゃ悲鳴も上げるわな。
恐怖もあるが、嫌悪感も勿論ある。抱きすくめられた時、相手が男だ、しかも見知らぬ男だというのは分かったはずである。押しつけられる体躯、抱き締める力、衣、香の匂い。本来入り込むこともなかったろう異物が、いきなり挨拶もなしにプライヴェート空間のど真ん中にダイレクトアタックをかましたとあれば、それはもう強姦魔の所行である。
でも御門はそれで女は喜ぶと思っている訳で、しかし御門はそんな育てられ方しかされなかったろうし、実際こうされれば女はふりでも喜んできたはずである。当時、この権力に逆らえる者などいてはいけなかったし、御門の寵愛を得られればこの先薔薇色の人生は拓けるのだし。
しかしかぐや姫は相手が御門だと咄嗟には分からなかったし、その後も決して心動かされることはない。かぐや姫は地位や富など興味はないのだ。欲しいのは人であれ草木花虫獣であれ正面から目交い心を通わせるもの、生と生の触れ合いなのだから。それを後ろからいきなりこちらの心などお構いなしであなた…強姦魔の所業ですよ(二度目)。
顎は問題だけど問題じゃなかった。しかしあの御門という作中の人間(地上の人間)の中では最も高貴な身分と人物像を醸し出すのにあの顎は実に効果的だったと思うのね。
でもやっぱり捨丸は格好良かったよ…。
元は月の仙女であるし、生娘でもあるかぐや姫にはあの抱擁は耐え難かった訳で、本来高貴な手による抱擁こそこの地上の最たる穢れを感じさせたのは実に上手い。これこそがこの映画の要だ。かぐや姫はこれによって、自ら月に返りたいと願ってしまうのである。
帰るタイミングもかぐや姫に一任するあたり、月のこの罰は決して残酷ではなく、これも親心故だなあと思う。

あまり処女性について語ってない気がするけど、この映画で唯一かぐや姫が女を匂わせた科白は「もっと強く抱いて」でしょうな。それまでも優美な色気はあっても、性的だったのはこの一言だけだ。捨丸の一緒にどこまでも逃げたいという科白もまだ健全だった。
だがあのシーンに、魂、精神のだとしても男女の交わりがあったのかと言われれば、やっぱりその一歩手前だったなあという。ここで交わってしまうと、別の物語になってしまうのである。そりゃ勿論ハッピーエンドに近いルートなのだけど、精神面のシーンでもそれを自重したこの映画の理性的な作りに感服する。

映画の中では二度、夢なのか?と思われるシーンが二つある。一つは今出した捨丸とのシーンだ。もう一つは、予告でも用いられた狂女の鬼走り。
あのシーンの疾走感は、観客それぞれの胸にどのように感じられただろうか。
疾走感、画の激しさとは裏腹に、解放はない。逃げられない。底の無い檻の暗闇を走るようだった。最後に辿り着いたのが雪景色の中。清浄な世界。生きたもののいない世界。月そっくりの世界だった。
かぐや姫はどれだけ駆けても、やはり翁の娘の肉体の中に戻って来てしまった。娘の肉体は社会の中で女の役割に縛られていた。その人間の社会は月の世界には太刀打ちできなかった。『かぐや姫』という女性を取り巻く入れ子のような世界を絵巻物のように見せた、あの鬼走りのシーンは「かぐや姫の物語」というタイトルと同じく、この映画が凝縮されている。美しく、激しく、哀しい物語だった。

こんな風に考察したり論じたり、また『竹取物語』への再考察を行うのも面白い映画である。
本当にずっと考え込んでしまう。
だが、女の感情論として喋ってしまってもいい映画だと思う。
何故なら、かぐや姫という一人の女の物語でもあるので。