「ファウスト」感想



この世でもあの世でもない、二次元でも三次元でもない、もし本当に四次元というものを目にすることができたら三次元のこの世に住む我々の目にはこのように見えるのかもしれない。
幻想的な映像である。
嘘は真実を取り込んでいるものほど飲み込みやすいというように、まるで現実のようだからこそ目の前の光景や風景は幻のようで、この世にあるものとは思えない。
その中を、迷う。
二時間二十分の、壁のない迷宮。

ファウストと言えばゲーテの名作であり、読んだ人も多いかもしれない。私は未読であった。だからこの映画で概要を知ろう、という気はなく、ただただ観に出かけた。撮ったのがソクーロフだったからだろう。
さて映画の当日は寝坊してしまった。片道一時間半かかる映画館なのに、上映の一時間四十分前に目が覚めた。布団の上で、諦めるか、という怠惰な気にもなったが、とにかく起床し駄目でもともと、車に乗り込んだのである。

劇場に足を踏み入れた瞬間「Faust」とタイトルの文字が真っ暗なスクリーンに浮かび上がった。

最初から迷い込んだようなものだ。自覚もなしに。映像体験という言葉があるけれども、映画だからこそ迷い込んだ迷宮かと思う。映像と音。いつだか映画『RAMPO』は劇場で嗅覚に訴える仕掛けを使い、もうこれは映画ではないと(善しか悪しかはともかく)評されていたが、この映画はまさに映像――光と聞こえてくる音――メインの話し声、背景の喋り声、環境音、音楽によって異界に誘うものである。だから映像体験というより映画体験かな、とや。
映像美については予告などでも言われていました。光の加減がこの世のものではない。実際この世ではないものも描いているのですが、それが不思議と地続きになっているから、迷い込んでしまうのです。
それに音が。劇中、よく女性の歌声が聞こえてきます。それは実際に画面に登場している人物が鼻歌のように歌っているのですが、これがもうセイレーンの歌声かと思われて、その響きと奇妙で甘ったるいメロディを聞いていると現実という位相から易々とスリップしてしまう。
このように書き連ねてきましたが、どうも映画の構成要素のどれもがちょっとずつ現実からズレていて、結果次元を違えたような体験になるのかも。
妙に非現実的と言ったけれども、それは登場人物のスキンシップにも結構強くそれを感じるんですよ。
冒頭近くの父親とのシーン、近頃一睡もできないとテーブルにまるで隠れるようにしゃがみこむファウストと、その上から軽く覆いかぶさり相手の頭の上に顎を乗せ、じんわりと手を重ねる…。
悪魔のいる幻想的な世界だから、魔法のような仕草は日常的にある。
光もそう。聞こえてくる音もそう。登場人物の仕草も。パーツを拡大すれば現実の構成要素なのに、全体は手に捉えることのできない幻想。

感想というより印象について長く語ってしまったけれども、感想が必要な映画だろうか、という思いあり。
各人が感じればいいんですよ!と乱暴なことを言いそうになりますが、ファウストという物語、ゲーテ先生の古典であるし、ストーリー云々ではなく、私は一つ悪魔について覚書をしておきたい。
悪魔の有名どころと言えば、このメフィストフェレス。
こいつが。
超かわいい。
喋り方も仕草も見た目も。外見と言えばこのメフィストは映画の中で裸身を晒すのですが、それが実に悪魔的です。人は神が自分の姿に似せて作ったものであり、悪魔は神に逆らった者ども、とすれば彼の肉体が洋服を纏ってようやく人間らしく見せているものの、まるで肉の寄せ集めでありファルスはなく申し訳程度の尻尾がぶら下がっているのは、悪魔の姿として実に相応しいと悪魔自身が思っているのではないかと思える姿です。
そんな造形もかわいいのですが、やはり悪魔の「実に悪魔だなあ…」と思わせるのは、労とそれに見合わぬ報われなさ。
最後はファウストに岩をいくつも投げつけられ、その下敷きになったメフィストですが、それでも死んではいないだろうし、また退屈な日々がやってくることに虚しい沈黙をしたのだろうと思うと、もう。

幻想の世界の終り、ファウストの行く先、何か解釈をしようというよりもスクリーンに広がった景色ただただそれだけで、それが闇に呑まれ、ファウストの名前が浮かび上がり、壮大な音楽とともに映画が終わる。
そうか、これは映画だったのか。
映画に終わりは用意されていたけれども、迷宮には、果たしてどうだろうか。