「ニーチェの馬」感想 身体が十分健康な状態で行くべきである。特に睡眠は十分摂った状態で行くべきだ。精神的にはへこんでいる時に行ってもよい。その方が見据えられるだろう、嵐の吹き荒れる一秒一秒も、繰り返される単調な所作も。 寝不足の状態で行った。 三日目の途中で居眠りをした。 トリノの広場でニーチェが泣きながらその首をかき抱いた馬がその後どうなったのか、馬と馬の飼い主とその娘の六日間を描いた映画。 二時間半あることは分かっていた。実際に観終えてどんな精神状態になるかは想像つかなかったが、とにかく行った。そしてここ数年で珍しく、映画を観た後でそれに関する雑誌や新聞掲載のレビューを読んだ。 年々、本テクスト主義になってゆく、とは以前から言っていることである。映画を観たら、他人がどういう感想を抱いているか、よっぽど知り合いの感想でなければ別に知りたくないし、映画評など気にならない。それどころか制作者の意図さえ興味がないしどうでもいい、そういう態度だ、基本的には。 しかし今回は読みたかった。映画館の階段に張り出されたレビューを素直に読んだ。 「映画に方位があるとすればその極北に位置する作品」 この一言により、映画としてのこの作品を自分の内部の本棚にどう仕舞うかが分かった。 今月頭、二次創作の長編を一本終わらせている。その途中で「快楽情報の欠如した生活」という表現を用いたが、この表現さえ文学的に感じるほど無味で乾燥した世界が広がっている。いや、閉じているのか。虚無が広がっているのか、虚無に包まれているのか。虚無に果てはない。境界もない。では虚無に侵蝕された世界はどうなるのだろう。 よくアニメでも虚無に侵蝕される様子は世界の崩壊として描かれるけれども、特殊な映像も効果もなく、それをあまりに現実そのままに映しながら、それたりている。恐ろしい映画である。 常と思われていた一日が乾いた冷たい嵐の吹き荒れる中繰り返される、そう思っている。しかしそうではない。土埃で世界を覆う嵐、枯れた草木、舞い吹き飛ばされながらも無尽蔵に降り続く枯葉、そこに在るのに意味をなさないという無味が登場人物である父と娘の生活にもじわじわと忍び寄ってくる。茹でたジャガイモだけの食事に既に歓びはなく、毎朝汲むはずの水さえ涸れ、そして最後には光が消える。 世界の崩壊と呼ばれるものとしてあまりに静かであり、あまりに淡々としており、そして派手さがないにも関わらず確実に私達の心を軋ませヒビを入れ、そこに無味と乾燥の風、虚無を埋め込む。 私はこの映画についてこれ以上誰かと話したいと思っている訳ではない。しかし、この映画を観終えて「つまらない」の一言で終わらせない人とは他の映画の話や本の話、創作について、やおいについて、セックスの話、色々楽しく話すことができるんじゃないかと、そんな気がする。 我々は一体何を描くことができるのか。 白紙を目の前に思う、何を描くことができるのだろうか…。 |