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「海炭市叙景」感想 私はこういう映画が好きだ。この映画を知ったのは去年の11月、ミニシアターの予告看板に貼られた一枚のちらしにて。それを見た瞬間、ハッとした。稀に「これだ」と理屈をすっ飛ばしてそのものが解る時がある。目を近づけてちらしを見た。出演に竹原ピストルの名前があった。 野狐禅を聴くたびに、それは懐かしく自分の根源であると(十代の自分の言い方を借りれば「魂が通ってきた景色」だと)感じるが、同時に不甲斐なくうだつの上がらない現在の自分であると、仕事を持っている時もそう思っていた。主催のコンサート前夜「札幌処刑台」をイヤホン大音量で聴いて震えた。 恐らくハズレはあるまいという確信には、同時にこの映画はきっと全てが幸せに終わる物語ではなく、遣る瀬無さ、物寂しさ、自分の声さえ聞くのが疎ましい哀しさをもたらす映画だという予想が付随した。予告編を観たのはずっと後だったけど、それも見当違いではなかった。そして、今に至る。 映画は、当たり前のように私の肌に馴染んだ。二十代前半、私が書きたかった小説はこういうものだったのだ。どうしてもハッピーエンドで括ることのできない生活。どうしようもなく、在る、人生。自らの命を手放す死も含め。 しかし私が書けないのが、手酷い裏切りと、軽蔑を含んだ沈黙と、自分を救済するためではない暴力で、この原作者の透徹した視点と力量を、映画をとおしてまざまざと知った。 私がそういうものを書けないのは、自分の基礎的な部分がウェルメイド志向でできているからだろうかと思う。 でも私がかつて書きたいと思い、今も書きたいと思うラストシーンはああいう風景だ。ラストは二つの風景があって、一つは雪の吹きすさぶ海、一つは猫を撫でる老婆の手。私が書きたいと望む景色は前者。後者はこの原作者と映画を作った人々の、そして生活というものを続ける我々の底辺にある優しさかと思う。ハッピーエンドに対する考え方は、自分も小説を書く中で変わってきていて、今ではハッピーエンドは作者の甲斐性だと思っているけれども、そんな今でも実はハッピーエンドよりも少し違うラストシーンを書きたい。 当初、2時間半は長すぎると思ったが、いざ観てみれば時間はそこまで気にならなかった。ああいうのを2時間でちょうどまとめるのも力量かもしれないけれど、この映画に流れる時間と人生の速度はあれでよかったのだと、観終えて、思う。 終わらぬ人生か、終わる人生か。目の前に横たわる時間を、枕の向こうに迫った明日という日をどう思うだろう。どうしようもなくて、不自由で、わずかな幸せの代わりにたくさんの鬱憤と遣り切れなさを支払って。だからこそ、出会う目の前の人に些細に優しくできるならしたい。 優しさや救いを、観ている側がどこからか掬い取る、そういうタイプの映画なので面白いと言われるかどうかは半々かと思う。私も面白いと言って薦めようとは思わない。ただ解る人には観てほしいと思うばかりである。 えー、最後になりましたが登場人物についてあれこれ。竹原ピストルについてはもう何も言えない。この映画に登場する全ての人に言えることだが、本当にあの海炭市で暮らしている一人の人間のようなのだ。彼の声は、時々、優しい。 加瀬亮さん、瀬文さんじゃん!って気づいたのエンドロール。遅い。上手いなあ、と思っていたので、どこかで見た顔のような気もするなあってのは後回しになってました。 息子のアキラ役の子が美人で。ごめん、市電に二人で座ってるシーンはなんかもう父と子ktkr!!!!!って内心凄く盛り上がりました、本当にごめんなさい。でも父と子ってすごく好きなので。 加瀬さんの役は、夫から妻、妻から継子という家庭内暴力の連鎖の話でもあったのだけれど、DVが一筋縄ではいかない問題なのは講演会で聞いていても感じたのですが、暴力をふるわれ、また暴力をふるう妻の、夫に向けた「私、絶対あんたに幸せにしてもらうから」という科白に深淵を垣間見ました。 映画を観終え、繁華街を歩いた。物寂しく、通りすがりに見かけた他愛のない笑顔にさえハッとした。 今日観た映画は『海炭市叙景』。 まちに暮らす人々の物語。 |