「さまよう刃」感想



観るべき映画を観たと思う。
東野圭吾原作ですが、様々な表現方法の中でこれを映画にしようとしたのは、よく判断されたと思う。多くの人に観てほしいような映画だけど、2時間スペシャルであれ、連続モノであれ、テレビドラマではいけなかった。やはりこれは、映画館という箱の中で逃げ場なく観るべきものだ。

感動の物語ではない。遣る瀬無く、重く、暗く、救いは提示されるものではなく、見出すものとしてしか存在しない。
人を殺すことに関して、自分の人生の中では随分長く考えてきたけれど、今でもやはり悩む。分からなくなる。正しい、というのは恣意的な基準によって作られる、頼りない、ともすれば胡散臭い代物かもしれないけれど、皆、敢えて言うように。正しいとは何なのか。正しい人殺しなど絶対にありえない、と答えるのが、本来は正しいのだろうけど。

殺すこと、命を絶つこと、苦しめること、復讐すること。これらは字義通り、全て別の意味を持っている。
強姦され、殺され、死体を捨てられた少女の父親、ナガミネは、密告によって犯人の名前を知り、真実を目の当たりにする。そして犯人である未成年の男を殺した。まず一人。そしてもう一人の行方を追う。
ナガミネが一人目の青年を刺したのだと分かった時、ああ、やったんだ、という衝撃と共に、胸のすいた人は多いはずだ。青年はその後、何時間も生きていた。ゆっくり何時間もかけて死に向かった。日も暮れ、ナガミネに密告した本人であるマコトが訪れた時、完全に死んではいなかった。もう意識もなかったし、身体も末期の肉体的反応で痙攣するばかりとなっていただけであっても。長い苦しみ、長い恐怖。目の前にある確実で絶対な死と、それから逃れられない絶望。そうやって報われるべきだ、とあなたも思わなかったろうか。
が、事象とは社会の中に存する限り多面的であり、マスコミは青年の死に対し、警察を責めたてる。そこで、はっと気がつく。人殺しは人殺しだ。しかし、死ねば全ての罪が贖われるのだろうかと。

最後のナガミネの決断を思う。空砲であった、というそれは、小説的ではあろうし、映画的ではあろうし、つまり物語的な良心ではあろうけれど、それでも涙が出た。マノの言った通りだ、ナガミネに未来はなかったのだ。
スガノが現れる場所を密告したオリベがまさか撃つまいが、とは思ったが、マノが撃ったのかと分かった時、何とも悲しく、そして得心もいった。警察官は公務員であり、事件の解決とは仕事だが、ああ、誰も彼も、どうしようもなく、人だ。

映画がちょうどエンディングロールに切り替わるところで涙が出るという、ありそうでなさそうな状態で泣きながら考えていたら、音楽が川井憲次だった。始まった時から、音楽が印象的というか、心に残るなあ、とは思っていたけど。

帰路、犯人の青年二人に対するリアルな嫌悪感を感じたことをよくよく冷静に考えると、これを演じた役者さんも偉いと言うか何と言うか…、大変だったろう…。