「いのちの食べ方」感想 これを見て食欲がなくなる、と言うことはない。と思う。 それでもやっぱり少し落ち込んでしまったけれど。 でも、その落ち込むことも含めて、期待通りの映画でした。 ナレーションも、字幕も、インタビューもなし。 あるのはただただ事実を映した映像と、そこにある音ばかり。 食肉工場の床を洗浄する場面から始まって、食肉工場のラインを洗浄する場面に終わるまで、 そこにあるのは、この世界の上で毎日当たり前のように繰り返される光景でした。 確実に、この映画を観ている瞬間も、この地のどこかで倦んだ日常として 繰り返されているだろう光景でした。 ひよこは親の姿を知らずプラスチックのカゴの中で数十の兄弟たちと共に産まれ、 両手で鷲掴みにされては選別され、そしてハネられたひよこは卵の殻と一緒に どこか知らぬ暗闇にひっくり返される。 おそらく太陽の光を知らぬまま広大な養鶏場の中で犇めきあい、 機械によって収穫される。 そう、あの様子はまるで収穫だ! 機械が稲を刈り取っていくように、どんどん機械の中に吸い込まれる。 血抜きされた豚が逆さに吊され、運ばれてくる。 機械は手順良く、頭、胴体を固定し、足を広げさせ、 円形のチェーンソーは乳首と乳首の間、身体の中心を違えず真っ直ぐに切り裂く。 そしてあふれそうになる内臓が完全にこぼれないのは、 あ、内臓って本当に一本の管なんだ、と不意に知らしめる。 その様子は嫌悪の感情さえ湧かない、何か一個の芸術的連続運動を見るようだ。 次の豚も、次の豚も、生前自我があり、彼ら自身は個としての何かを持っていたろうに、 誰も彼も区別なく、ただ一種類の「豚」として連続する芸術の一部になってしまう。 電撃により一瞬の死を与えられた後、やはり逆さに吊され運ばれてゆく牛たち。 皮を剥がれる様子なぞ、いっそ気持ちのよいくらいに剥がれてゆく。 乳牛だって特別じゃない。 ベルトコンベアの上でぐるぐる回りながら、乳を搾られる。 自然の恵み、牛乳。うーん…。 動物だけではない、植物も整然と並び、飛行機で、あるいは巨大な異形の機械で 消毒液を散布され、またそのへんの田んぼのスケールとは比較にならない ビニールハウスの中で、無表情な手に収穫され、すぐさま箱詰めされる。 収穫祭という言葉があるけれども、そこには収穫の喜びはない。 やはり、ただただ仕事。ただただ仕事なのだ。 うまれたばかりで捨てられたひよこ、 乳牛の乳を出すために腹の横から取り出された仔牛、 鉄柵に固定されたまま、愛情の在処の見えない授乳をしていた豚と子豚。 熟したまま枝にのこり、やがてまとめて伐採されたパプリカ。 食べるために家畜を育て、食べるために殺す。 食べるために野菜を育て、食べるために刈り取る。 もちろん、必要なことごとだと分かっている。 これを観て「もう何も食べられない!」と叫ぶほど感受性は鋭敏ではなく、 世界というものは少し知ってしまっている。 けれども、もったいない、どころの話じゃなかった。 徹頭徹尾、尊厳がない。 その誕生から、生から、死まで。 尊厳のない誕生、尊厳のない生、尊厳のない死。 セックスさえ、ない。 そこにある誕生は愛の営みの末ではなくて、きちんとコントロールされた誕生、 生であり、安全な食卓のための管理された生であり、終焉としての死ではなく、 食材生産のための一過程としての死に過ぎない。 そう、誕生も生も死にも尊厳のなかった彼らは、 食材となり、料理となってテーブルの上に載った時、 初めて価値を与えられ、見いだされるのだ。 では、人は。 そこに携わっている人々は。 豚の頭部を切り裂くため、牛の喉笛を裂き血抜きをするためのナイフを研ぐ人々。 映像の途中、途中に挿入される彼らの食事のシーン。 ああ、どうしたって腹は空くし、食べなければ生きていけないんだ。 私とてそうであり、映画館を出てアーケードを歩きながら、 漂ってくるファーストフードの香りに食欲が湧き上がるのを押さえられなかった。 クレープの良い香り。苺や、カカオや、生クリーム。 ただ、この光景が浮かぶようになった、そこだけは違う。 ビニールハウスだ、牛たちだ、無表情に選り分ける人々だ。 言葉のない90分は、想像以上に饒舌だ。 もし、ここにナレーション、インタビューがあったならば ここまで考えなかったろう。 それどころか、もっと斜な見方さえした可能性がある。 映像は語る、言葉以上に饒舌に。 ただそれは万人に同じ言語で語りかけるのではなく、 きっと一人一人に特別な何かを語りかけるんだろう。 またいつか、観たい。 今度は誰かと観てもいい。 いつも映画は一人で観るたちだが、この映画は誰かと観てもいい。 |