「コクソン/哭声」感想



ネタバレ全開でいきます。
これから観るのね、楽しみなのね、と言う方はブラウザバックしたり記憶から消してください。
あらすじで皮膚が爛れ云々と書かれていたので、どうしようかなと思っていました。
ホラーは好きなのですが、グチョっとしたものが苦手だからです。
田舎の山村が舞台で皮膚が爛れてサスペンスホラーでは、ホラーと連続殺人が好きな私でもちょっと嫌な予感がするものです。
しかし國村準のインタビューを読んだら興味の方が強くなりまして、後押しもあり、重い腰を上げて夕方の上映にレッツゴー。
初っ端から國村準が褌一丁で鹿の生肉を頬張っている。字面だけ見ればゴールデンカムイですがそんな訳はない。しかも目が真っ赤に光っていて異形感ありありなのですが、映画の描写そのものはリアリティの度合が現実に近いので、主観的演出と思って処理していました。
ここ。ここなんですよねえ。リアリティレベルをどこに置くかが映画の最後まで定まらず翻弄されどおしだった。不安とモヤモヤが最後まで続き、正体は悪魔だと分かっても解決のカタルシスは与えてくれない。血みどろの暗がりに残された主人公と同じ気分で映画が終わる…。
惚れた弱みのない悪魔、本気出した悪魔って強いのねえ。私の見かける悪魔――同時に私の好みの悪魔――というのは、甘言誘惑の術に長け、これと目を付けた人間の魂を手に入れようと付きまとうものの、労多くして功少なし、情けない姿醜い姿を晒すがそれを恥じず、常ににやけ笑いを絶やさず、そして多くの場合老いている。サンプル数が少ない上に偏ってるな。とは言え、グリム童話なんかに出てくる悪魔を見ても、徒労に終わる悪魔はわりと見かけるものだと思うんですね。
國村準扮する日本人は本当に謎の存在です。冒頭から半裸で鹿の生肉を貪っているにもかかわらず、ただの人のようにも見える。その目の光は理知的だし、人間同様に傷つく。一時は死んだとも思われる。最初に悪魔的な姿を見せられたのに人間として見てしまうという、ここで既に見方がブレるのに、更には祈祷シーン。
主人公(最初は本当に女々しかった)の娘が異常行動を始める。しかも殺人事件の容疑者と似た発疹が現れる。悪霊が取り憑いているということで祈祷師が呪いの元を日本人と定め“殺”を打つ。同時に日本人も似たような祈祷を行っていて、ここはすわ呪詛合戦かと思われるんですね。主人公の視点からストレートに見ていけば、怪しいのは日本人なので、ここは日本人が娘に呪詛をかけ、祈祷師が呪詛返しをするんだろうと思う。けれど“殺”でダメージを負うのは娘なんですよ。そりゃ娘に悪霊が憑いているのなら呪詛返しでダメージを受けるのは悪霊、依代になっている娘が苦しんでいる「ように見える」だけかなと思うんだけど、娘に「祈祷をやめて…」と息も絶え絶えに言われては惑う。疑念が湧く。祈祷師のやり方が間違ってるんじゃないのか? しかも、主人公サイドからは分からないけれど、観客には日本人の祈祷が娘をターゲットにしたものではなく、山中の死体であることが分かっている。
何がどうなってるんだよ……。
しかも日本人が死んだと思ったら祈祷師が「日本人は悪魔から村を護っていたんだ」とか言われる。
ちょっと待ってよ、どういうことなのよ……。
観客はどんどん誰も彼もが信じられなくなる。
観終えて考えると、最初から提示されていたとおりの存在だったのかなあとは思うんですね。日本人は悪魔で、白い服の女は神。でも神様が悪霊に襲われた村に対してそこまでサービスいいものかとは疑問なのですが。
ドストエフスキーの『悪霊』に引用されているような悪霊感もちょっとありました。頭に血の昇った主人公が友達を引き連れてトラックで日本人を殺しに行く場面。狂奔に取り憑かれておる。悪魔が日本人の姿を借りていたというのも韓国を舞台にした物語だからこその味わいですよね。歴史的には悪魔であり鬼であり、現在もその印象を引き摺りつつ、隣国という近さを持ちつつ異物であり。
一晩考えて自分の中の落ち着けどころを探した訳ですが、まず白い服の女はやっぱり神の使いならずとも神の意思を受けた存在だったんだろうな、と。最初の殺人現場に残されていた罠が枯れていたのは、最後に主人公が家に入ったせいで効力を失った罠が枯れた様と同じだし。また、主人公宅にやって来た祈祷師が女の存在を見て門より内側には入れず吐血したこと。神は積極的に悪魔を祓ったりしないけど、神に拒まれたら悪魔は太刀打ちできない。大岡裁きで子供の両手を母と偽母に引っ張らせたみたいに、人間を間にした引っ張り合い(誘惑など)はできるけど、力では神が圧倒的に上で……これキリスト教の神ですね。冒頭に聖書の引用もあったけど、悪魔に関してはキリスト教ベースなんだよなあ。見た目的にも。けどここで更に面白いのが対抗手段としての祈祷などが土着の信仰であることです。
先日まで読んでいた本が『しぐさの民俗学』(常光徹/角川ソフィア文庫)で、現在読書中が『呪いと日本人』(小松和彦/角川ソフィア文庫)という、何を企んでいるんだと言われそうな感じですが、人間の心性がしぐさやパフォーマンスに込めた意味とか学ぶと面白くてですね。そういう面からも祈祷師の出てくるシーンは面白い。呪的なもの神秘的な効果がしぐさやパフォーマンスそのものに宿っているのではなく、悪の原因あるいは悪の祓われた結果を見出したいという人間の目に映るものであれば、祈祷師が娘の悪霊を祓おうと打った“殺”に付随する行為は単なる暴力や騒音でしかなく、娘が苦しみ出す前はうさんくさいインチキ祈祷に見えた人も私以外にいたのではなかろうか。事実、こういった行為による過失致死のニュースを我々は見る訳で。
すると祈祷師も本物かどうか分からなくなる。しかも最後に提示されたのは彼も悪魔である証拠で……本当に…本当にどうなってるのよこの映画! ちなみに車に襲い掛かる蛾の大群は悪魔的所業に見えるんだけど、何かあった時に大量の虫を使うっていうのはむしろ神様の得意技ですね。だからやっぱり白い服の女は神に与する側かな、と。個人的には白い服の女によって存在を弾かれた祈祷師のくだりが一番きついポイントでした。ゲロです。あのドバドバ出るゲロ。ゲロは苦手なんです。飲み会で隣の席の人が吐いたりしても平気なんだけど、物語の中のゲロ、特に絵的なゲロが苦手。でも自分の創作ではよく吐瀉物とか出す。これは不思議な心理だ。
悪魔の話に戻ると、単体として捉えられないものなのかなあと。まどマギの時も少し考えたのですが、神という唯一に対し悪魔は複数なんですよね。コクソンの悪魔は一つの目的を果たす為に複数として表出していた…、それこそ悪霊だったのかなあと。目的とは村を滅ぼすことでしょうけど。釣りの喩えが出てきましたが、村は漁場であって、飽きるまで釣りを行う悪魔。これと決めた魂が一つある訳ではない、この漁場を定めただけでどんな魚でも釣る。ひたすら本気の悪魔は…強いな…。本気、かつ遊びですよね、きっと。
なれば日本人と祈祷師だけではない、「祈祷をやめて」の科白も悪魔のものであったと考えられます。娘に言われたら子煩悩な父親はコロッといっちゃうじゃない。何という狡猾。また最後に助祭が単身で日本人に会いに行ったシーン。姿を見るまでは相手が悪魔だと確信していた、けれども悪魔の言葉を聞いた途端に助祭は目の前の男は悪魔ではないと信じちゃったはずなんです。だからこそ最後に爪の長い、膚の黒い、目の赤い悪魔の正体を見ることになるんです。ここで『無頼伝・涯』より涯先生の名言をいただきましょう。「悪魔はみな優しいものだ…!」ちょっとした一言がまさに悪魔的で…強い(二度目)。
ガチ強の悪魔に対して助祭は善良すぎたのだ…。でも佳かったあ。時間が経つにつれてホラー風味よりも血みどろサスペンスよりも、この悪魔の誘惑はなかなか佳いものをみたなあ…!という思いが強まります。やっぱり國村隼は格好良かった…!!
疲れたのでゾンビへの言及はしなくてもいいですか。というか…分からない…特にあのゾンビのくだりを物語のどの線と結びつければいいのか分からない…。悪魔が使役したっていう単純な話でもない気がするんですよねえ。日本人の祈祷がゾンビを作り出すものだったとした時、日本人=悪魔という公式が縺れて感じるんですよ。ゾンビ作り出すのにすごい労力を要しているし、なにより翌朝の日本人の表情とか上手く説明できない。キノコの精神錯乱の要素も絶対には捨てられないだろうし。
本当に何なのこの映画……。