「ラ・ラ・ランド」感想



ラストは己の走馬燈を見ているかのようだった。
私の過去の走馬燈ではない。
私が一度も夢見ようとしなかった、けれどももし夢見ていたら、という走馬燈。
ハッピーエンド。エバーアフター。二人は幸せなキスをして終了……。

愛し合っているのにどうしても別れなければならない二人がドラマに登場することがある。
昔から理解できなかった。
若い時分は若い愚かさなりで「もっと素直になれば別れずにすむのに」と思いもした。
今は何となく「そういう流れになってしまう」のは体感として分かるのだけれど、まあ、ありますわな愛し合っているのに別れなければならない二人の物語。
最近だと『王様達のヴァイキング』11巻の終わり方がそんなで、先日新刊の12巻が出るまでずっと心臓を痛めていたものでした。
他者の人生の物語でさえ痛いのに、今回は何故だか自分の人生の鏡の裏側を見ているような気がしたのだ。
私が見なかった夢の走馬燈。
手に入らない。決して入らない。
だから、納得できる。あのラストになってしまう。

映画を観る前から「実質セッション」という心臓補強剤をもらっていたけれど、セッションの二人の関係も改めて見直すことになりましたねえ。
あの二人も歯車がしっかり噛み合うのはセッションを行うあの時間、曲の中だけなのだ。
それ以外の時間では関係は崩壊してしまう、鬼コーチの前の教え子が死んだように。
だからラ・ラ・ランドの二人も芽の出ない女優志望とジャズピアニストという貧しくも豊かな季節でのみ、互いが互いで満ち、耕し、芽吹かせることまでは可能なのだけど、人生という樹木が在るべきように育つには二人だけの空間は適しない環境だったのだ。
そう言えば自分なりに色に注意して見たんだけれど、緑はもっと育たなければならない、っていうシーンかなあって思いましたね。(もともとの緑という色のイメージに左右されてるのかもしれないけど)。

映画の感想、個人的な感想としてはね、もう一行目で充分なの。
だから作品作りに方面で思ったことをちょっと書いておきますね。
つまり自分向けのメモなんだけど。



開幕ぶっぱだよ、やっぱり!



「面白い」を最初からドッカンドッカン詰め込まなきゃだな作品は!
やっぱな! 頭が大事ですよ!
「君よ憤怒の河を渉れ」でも冒頭で主人公が犯人として名指しされて、なんじゃこりゃって思う訳じゃない。
ガチガチのガチでこれが面白いんじゃ!って思ったことを最初っからぶっこんでいかなきゃですよ。
後にとっとこう…クライマックスでやろう…とか無駄無駄無駄!
まず作品という列車に乗ってもらわなきゃクライマックスもねえんですよ!
逆に乗せちゃえばこっちのもんなのだ!
……そこんとこはまあ、小説は途中で読むのをやめるのは簡単だし、映画だってよっぽどつまんなかったら席を立つ人もいるけど、映画は特に箱の中だから列車に乗せた者勝ちよのう…と思った次第です。
というかオープニングが、テレビとかでも散々流れてるけど、やっぱりあのオープニングがよかった。
あれ観ただけでも映画の満足感がある。
曲の最後の最後までいい。あのタイトルの入り方素敵。もう大好き…。
そうそう、途中途中の文字の入り方も好きで、最後のエンドマークとかこれでもかってくらいこれでもかなエンドマーク打ちやがって…と思ったけど、この映画にはとても相応しかったと思いました。