「帰ってきたヒトラー」感想



この映画を見ようと決めたのはヒトラーと現代の市井の人々の会話が台本なしの本物の即興で380時間も撮られたという新聞記事を見たのがきっかけで、その後本屋にも原作が平積みされていたので九州の片田舎に上映が来る前にこれを読んでしまおうと上下巻のそれをレジに持って行った。
実際には映画館に入る直前、すき家でキムチ牛丼を食べながら詠んでいたのは下巻の半ば。
読了しない状態で読んだけれどもそれが障害になる映画ではなかった。
「帰ってきたヒトラー」という作品は、同一作品でありながら原作小説と映画はそれぞれ独立した存在だったからだ。
よく言われる「原作とは別物」という批判ではなく、言うなれば生物の超個体のような。
同じ一つのイデアが小説と映画というそれぞれの表出としてこの世に現れたような感じ。
つまりヒトラーの顕現。

1945年に死んだ自覚のないヒトラーが現代で目覚めるというのがこの作品のストーリー。
オビやちらしにも「お笑い芸人として大ブレイク」と煽られているが、本人にその気は全くない。
彼は、ヒトラーが絶対悪であり第二次世界大戦のあれこれは全て最悪だったとされる2014年においてもブレずにヒトラーであり続ける。
ヒトラー本人なら、私が私であるという自明に対して何故ブレなければならないのかと唾を飛ばすだろう。
まあ、こんな感じ。
これが小説では濃密な一人称の語りとして全編彼の声で再生される。
映画ではこの原作を全てモノローグとして盛り込むことはできない。
それでは朗読劇だし、朗読にしたってものすごい時間がかかる。
映画が映画の手法で彼そのものを現在に蘇らせた。
ヒトラーが現在のドイツ国民と即興で交わす会話、380時間。
そっから選び抜かれた30分に映っているヒトラーは即興だからこそリアルすぎて恐いヒトラーそのもので実際恐い。
大切なことだから二度言うけど、ヤバいやろ、あかんやつやろ、と恐くなるほどだ。
そこがこの映画の独立しながら同一のものであり面白い映画として光を放つ所以だ。

さて政治的側面が強調された作品かというと、まずこれは笑える映画なのである。
今浦島もののおかしさってベタなのかもしれないけど、ここではそれを更に我が総統がやってるってのが更におかしい。
目覚めたばかりのヒトラーが広場で観光客にもみくちゃにされて写真を撮られまくるシーンが冒頭にあるのだが、これがまたおかしい。
しかしこの映画(または小説)のおかしい部分というのは、どこかで恐いのだ。
お前ら笑ってるけど、それマジモンのヒトラーだからな?
ギャグだと思って笑ってるけど、こいつ今の科白ガチ本気だし今でもホロコーストしかねないからな?
だけど演説のシーン、感激してしまう自分もいて、現代にヒトラーそのものじゃなくてもこういう指導者がいたら皆ホイホイついてっちゃうんじゃないかしら。
ちょうど五輪の時期だから他力本願が際立って見えて、この他力本願の喚きの中心にヒトラーをそっと据えたらダイソン以上の吸引力が発生すること間違いない。

原作小説ではヒトラーの内面が彼自身の言葉によって濃密に描かれる分、ゾッとしどころが多々ある。
映画では彼の内面が部分的なモノローグでしか表れない以上、小説とは違う結末でヒエッと悲鳴を上げさせるような冷たさを明確にしているのだが、果たして原作と映画の結末は全く違うものだろうかと小説読了後に考えてみると、いや、これは同等に不穏では…?と思わせる。

個人的には原作を読んでからの映画をおすすめする。
映画の持ってくるメタ的なネタもその方が楽しめるし、世界史で絶対悪としてしか学んでこなかった私たちには彼がどんな人物か、どんな思想の持主だったかが分かりやすい。
それと原作を読んだ後での映画のラストの「ヒエッ」はかなり味わい深いものだと思うのですよ。