「セッション」感想 既に、映画に対して正当な客観的評価をできない。 だが知ったことか。 誰がこれをどう評しようと知ったことか。 プロのミュージシャンが千言を尽くして酷評しようと、構ったことではない。 映画が音楽を完全にその一部と成して、うねり、鳴り立て、与える興奮を、誰が気に入らないと言ったって、私は感動と呼ぶ。 と、まあ、いきなり攻撃的に初めてしまったけれど、これは映画の影響というより、最初にネタバレをした状態で観た、という事実に依る。 つまり某ミュージシャンの長文の酷評(途中で読むのをやめた)と、それに対する「彼の批判は『ロッキー』を観てボクシングとして間違っていると言っているようなものだ」というすっぱりと簡潔な反論の両方で、映画の全体像としては二つの視点からまるっとネタバレした状態で観た訳で。 しかし、ネタバレして観ても、地力のある作品は面白いものなのである。 この映画もそうで、面白かった。 その力は、音楽にある。と一文でまとめてしまうと、また「これだから素人は」と言われてしまうな。 いや、実際素人なんだけどね。 でも技巧云々じゃなくて、映画の中で流れている音楽が、スクリーンの上の主人公が演奏している音っていうんだけじゃなくて、演奏する彼を描写している。 言葉に依らない描写が出来るのが映画でしょう。 科白に頼らず描写しきった、その要にあるのが音楽だった。 その時、演奏に対して「ただガチャガチャ五月蠅いだけ」って言っちゃうのは、描写の読み解きができなかった、というのとイクォールだ。 ただひたすら叩くだけの演奏であっても、監督は、そこで主人公らを描写するために、そういう演奏を選択したのだから。 この映画の中のジャズは、小説で言う文体だと私は思う。 そして文体は、この作品に完全にマッチしている。 しかし、自分が本業にしているジャンルが映画とか、他の媒体で題材になった時、冷静に見られないのは当たり前のように起こる事態で、責めちゃいかんのかもしれない。 そもそも、最近のフライヤーとかの作りに変革を求めたい。 受賞!とか、某氏激賞!とか、そのジャンルの人々のコメントがフライヤーの裏面を埋め尽くすの、本当に信用ならないなと思う。 以前からその手のフライヤーが好きではなかったけど、最近この手のばっかり増えたような気がする。気のせいか? 映画を作った側とか、それを配給する側が、どんだけこの映画を推してるか、どういうとこを推してるのか、そのへんをもっと押し出してくれよ、と思うが、映画は興行であり人をたくさん集めなければ会社は潰れてしまうので、そういう作りになるのも致し方なしか。 でもまるで視聴率至上主義的な、品の悪さを感じるのよね。 例の長文disとかも、発端はここにあるのだし。 という訳でね、映画の感想じゃなくて、結局私も、その気分のよくない酷評の後遺症を引き摺ったまま、それに対する反駁みたいな文章になってしまっている。 もっとスパッとした感想が書きたかったんだけどね。 例えば、J・K・シモンズが、現在私の中の三次元ハゲランキング一位の輝いてるとかね。 鬼コーチですから、不機嫌が蓄積していく表情や怒り狂った顔の恐いくらいの皺とか凄く印象的ですけど、やっぱり首の後ろの皺、重点ね。 私の中のハゲランキング、一位はサイボーグ009のグレート・ブリテンなのですが、二次元と三次元だけど、完全に肩を並べましたよ。 あとは、そうそう、映画を観た後で改めてポスターを見たんだけどキャッチコピーの中に「才能×狂気」ってあった。 シモンズ演ずる鬼コーチが狂気であることは間違いないとして、そう、私映画鑑賞中にずっと判断できずにいたのだが、主人公のアンドリューは確かに才能があるという設定だったのかしら。 だが、どっちであったとしても、最後の演奏は、完全にタイトルそのものだし、この映画そのものだった。 今回は珍しく邦題にケチつけなかったというか、『セッション』というタイトルは合っていたなあと思う。 原題は『WHIPLASH』で、作中で演奏されるキーの曲であり、鞭打つこと(鬼コーチのシゴキ)であり、映画全編を通して、名が体を表し、体が絶え間なくその名を意識させる、ドンピシャなタイトルだと思うんだけど、『セッション』もいい。 本当にこの二人の間にセッションなんかあるのか、と思わせる二時間じゃん。 その終わりの瞬間に、確かにこれは訪れるんだよ。 でもその瞬間、映画は終わってるんだよ。 アニメならCパートが欲しいところで、映画は容赦なく終わる。 そこんところが、また気持ち良くて、私、「お前の見方は浅い」とか言われたら、その人と殴り合いの死合いができそうなくらい、ま、この映画観て良かったと思ってます。 |