傷は現在に何を与えたのか

彼(彼女)らは

現在をどう進もうとしたのか



「ジャスティス・リーグ」感想が、登場人物の過去に着目したものになったので、映画の中で現在進行形で起きたことを書き留めておこうと思いまして。もちのろんでネタバレしますので、また駄話から始めましょう。

コミックスの『バットマン VS. スーパーマン:ベストバウト』に『ジャスティス・リーグ:誕生』の一部が掲載されているのですが、これを見るとグリーンランタンが登場しています。私はアメコミ界隈本当に初心者なのでグリーンランタンの能力さえ把握していないのですが、wikipediaのお蔭でフラッシュがグリーンランタンにお金を貸すような関係だということは知っています。さておき、映画ではあの横並びの中にいなかったグリーン・ランタンだけど、今作のヴィラン、ステッペンウルフとの神代における戦いの際にグリーンランタンの能力を持つ人が戦ってますよね。そして死んでますよね。緑の光が飛んでいったからパワー(能力?)は新たに宿る誰かを待ってるのかな。それともバットマンの視界にまだ入っていないだけかしら。BvSでルーサーが集めている資料の中にはいましたっけ。うう、BvS観直したいなあ(しかしレンタルしてきたのはドラマ版フラッシュ)。

他は各々正体を隠したり、身を潜めて暮らしたりしていたけれど、ルーサーに見つかってますね。アクアマンやフラッシュは能力を使っていますが、ワンダーウーマンは静かに暮らしていたのに過去のたった一枚の写真から正体を暴かれた。半分くらいは渋々世に出てきた人達だけど、ワンダーウーマンは共にこの地上で息をする名も知らぬ人々への愛情を持ち続けている。アクアマンだって人間らしい感情を捨てては生きていけない。彼が作中で不本意ながらも語ってしまった恐れや不安という本心は、たとえ自分が海の中で自在に動けるとしても自分よりずっとか弱い人間という存在をあの大海から助けだそうとする時にだって抱いていたに違いないと思うのです。全てをあまさず救うことのできたヒーローなど多くない(寡聞にして知らないので「いない」と断言はできない)。

その彼(彼女)らが「ジャスティス・リーグ」という舞台でどういう行動を取ったのか。よくよく見れば、それぞれ孤高、孤立、孤独を選んだり気取ったりしている姿は、やっぱり一面でしかなかったのです。

BvSの時はひたすら謎めいて格好良かったワンダー・ウーマン。けれども単独映画で見られるあの過去を経て、寄り添いの姿勢をまず見せてくれたのは彼女でしたね。バットマンへも危機を知らせに来るし、サイボーグとは最初距離を取りつつも対話によって理解しようとしている。既に英雄的戦闘経験を経ている彼女と、能力も、己の肉体そのものも持て余してしまうサイボーグでは数分の会話で打ち解けることはできないんだけど、能力をギフトと呼ぶワンダー・ウーマンとの出会いが苦悩の中で蹲っていたサイボーグに違う視点を与えてくれたのは確かです。

これとは対照的に交渉決裂の様を見せたのがバットマンとアクアマン。私はカネを対価とした情報提供の申し出はそれなりに平和裡な方法だと思うんですけどねえ…。無論、このやり方は恐怖政治下の密告とかに通じてしまうんだけど、そもそもバットマンの能力はうなるほどのカネですから。で、その能力を十分に発揮したアクアマンの捜索と説得が全く振るわなかったのは、逆にあの裕福ではないはずの漁村におけるアクアマンの存在がどういうものであったのかを教えてもくれる。酒場(?)の壁に描かれていた壁画からしてアクアマンの存在が生ける伝説ではあるのです。しかもブルース・ウェイン(バットマン)がカネの話をするあの場にいた訳で、本人の目の前で本人を売るような真似は、しかも相手は神のような力を持った存在だから尚のこと恐ろしくてできる訳がないんだけど、あの場での沈黙は恐怖により口を閉ざしたのではなく、意志の力で口を噤んだ沈黙だった。あれはアクアマンの存在を護るための沈黙であったと思うのです。海からの客人(まろうど)ではあるアクアマンですが、漁民との間にある繋がりも隔たりも、彼ら貧しき人々はカネでは売らなかった。果たしてアクアマンは、己がカネで売られはしないと断言できただろうか。

などとね、彼(彼女)らと、弱き人々であると同時に多勢となれば異物を排除することを簡単にできる人々の集団である社会、世界との間の関係は確かに希薄であったり、影のものであったり、細かったり、あやうかったりしてきたんだけど、その中で繋ぎ留めてくる思い出や接触、また自分が繋がりを持ち続けようとする意志があって、それが「ジャスティス・リーグ」の戦いによって、自分は確かに社会にとって異物な存在だが自分の力を正義をもって行使することでこれからはもう正々堂々と世界だって救ってやるっていうヒーローに、一つの戦いの中や伝説の中の英雄じゃなくてヒーローとして生きるっていう今を選び取らせてくれたんじゃないかって思うんです。戦場の英雄からヒーローへ。海の王という伝説からヒーローへ。人間と機械という混沌とした存在からヒーローへ。悪い奴をちょっととっちめることができる青年からヒーローへ。

読者・観客からはダークヒーローと呼ばれるバットマン。きっとそれは自認もしていることでしょう。明るい陽の下で笑顔と共に活躍するタイプには、彼、この先もならないはずなのだけれど、けれどアクアマンを勧誘する際には役に立たなかったカネの力で名実ともにヒーローである存在、バットマン自身も彼こそが正義でありヒーローだと認めている一人の男の幸福を救ったじゃないですか。カネは平和裡に誰かを幸福にする環境を整えることができるんです。

独りで戦ってきたヒーローたちが仲間を持った。DCの映画を観てきてワンダー・ウーマンと今回の映画におけるアクションシーンに爽快感があったのは、戦っている場所や場面設定の明暗だけじゃなくて、仲間がいるからじゃないかしら。仲間がいるからこそ、アクアマンは戦いの中で声を上げるほど昂揚したんじゃないかしら。アクションに関して、あまり分かったようなことは言えないのですが、サイボーグ009を愛する者としてはフラッシュの加速空間での戦闘はかなり燃えましたし、その加速空間についてきたスーパーマンが心底恐かったです。さっき言ったコミックス『ベストバウト』の中でもスーパーマン(厳密には本人ではない)が「私は(ジャスティス・リーグの)みんなを束にしたより強いからね」って言ってたけど、強さだけの話をすると本当にそうなんですよね。今更ながらBvSで人間がこの異星人を恐れた理由が実感される。

さて、私ドラマ版フラッシュをレンタルしてきたのですが、この感想を書いている間に日付が変わってしまいました。今日の所はこのへんでお開きにしたいと思います。