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「ジャスティス・リーグ」感想



多分ネタバレを含むと思いますので、最初は恒例の駄話から入ろうと思います。

と言うかですね、今回の感想では私、この映画、褒めようと思っております。何故か。理由は分からない。ただ映画を見終えてにこにこしながら帰るのがまったく無意識だった。ふと気づいたらにこにこしていたっていうのが一つはあるかと。敢えて神妙な顔をしたり、消耗したり、あそこが欠点だったなあとか思い返したりではなく、ただひたすら「えずらくんは本当にかわいいねええええ!」ってしか考えてなかったんですよね。はい、観ている最中の感想の半分くらいをこれが占めています。え゛ず゛ら゛く゛ん゛か゛わ゛い゛い゛ね゛え゛え゛え゛!!!

映画に出かける前にバッグやポケットの中身をチェックしますわな。ハンカチがあります。映画が始まる前にトイレに行くし、必須ではある。で、このハンカチをポケットに入れながら「いや、ジャスティス・リーグだし泣く心配はないだろう」と思ったんですね。

映画冒頭で早速そのハンカチを使うとは想像もせずにね。

冒頭、モバイルのカメラで撮られているのだろうスーパーマン。そして撮影者である兄弟らしい子どもの声。私、もう、泣きまして。特にこのシーンの最後「地球のどこが気に入ってる?」という問いに対し少し考えを巡らせたスーパーマンがこちらに笑顔を向けた時、もう、いけませんで。

この映画は予告の時点では地球を侵略する巨悪に対して、今まで個々人で活躍していたヒーローが集う映画のように見えましたが、実際にはスーパーマンの不在と復活の物語が一番重たい核となっている。そもそも巨悪が地球を訪れたのも、スーパーマンの不在によって世界中の人々に外敵または害敵に対する恐怖心が蔓延した為だ。しかも今回のヴィランの侵略がなければ、スーパーマン復活の手がかりもなかった。

強大な敵を倒すこと。スーパーマンの復活。この二つに重心が分散してしまったことによるふらつきはあるけれど、しかし2時間の映画としてしっかりまとまっていて、私はこの長さでちょうど良かったなあと。っていうかスーパーマンが登場すると、もう大体解決しちゃうという、あまりにもチートすぎる強さ。でもジャスティス・リーグの彼らは強いからスーパーマンの存在を欲したんじゃない。彼の、正義の体現のような存在をこそ欲した。

ジャスティス・リーグはブルース・ウェインがスカウトマンになって人材を集めるから、元々一匹狼的な彼がリーダーとはいかないまでもマネージャー的にこの集団をまとめてもよさそうなものなんだけど、まずこのバットマン自身がスーパーマンの存在を欲しているのが、ですね。彼らは、我々観客から見たらアメコミのヒーローだけど、あの世界に存在する彼らはヒーローというレッテルをあっけらかんと貼り付けることができないんですよね。周囲も、そして自らも。

まずバットマンはその生い立ちで悪の犠牲となり、活動の根本は正義を為しているのではなく、悪を罰している。警察の協力者だけど警察からも胡散臭く思われてる部分もありますからね。

ワンダーウーマンはその生い立ちこそ、愛情をかけられ、護られ、育まれてきたけれども、外界と接点を持った時、戦いの犠牲を知り、失い、彼女もまた傷を負った。彼女は神の力、神殺しの力も持っている。第一次世界大戦の弾雨の中を駆け抜け、今でもその手で銃弾から弱き人々を護ることはできるけれども、戦争は彼女一人では止められなかった。

アクアマンが生まれてすぐ母親に捨てられたと認識していたのは彼の人間くささに説得力を与えられて、私、その設定いいなと思いましたね。彼は神の部類の力を有するけれども、人間の酒場への馴染み具合とか、正義の為の救命活動というより、海に生きる者同士として助けたような存在の地続き感、いいなと思ったんですよ。でも捨てられたという認識から海の王国には馴染めないし、かと言って人間とは隔たりがある。結局、境界の存在としてどちらにも本心は明かさず、海の荒くれ者を気取って生きている。

サイボーグに至っては能力を得たばかりで、まだスタート地点にも至っていなかった。肉体は機械が補ってくれているけれども、傷ついて蹲っている状態だった。ワンダー・ウーマンは能力を「ギフト」と表現するけれども、彼にとってはとても「ギフト」だなんて思えなかったんですよね。スーパーマンが蘇った時は意志の制御を超えて勝手に攻撃してしまうし。

順序的には逆だったかもしれませんが、最後にフラッシュ。ちょっと違う話から始めますが、他者が何を感じるかというのは大人になろうと自然に察することができる訳ではなく、それは自身・他者の体験を通して学習していくものだと最近考えています。で、フラッシュが何故友達を欲しているのかということを理解する上で、私は映画「エル ELLE」を観ていてよかった。「エル」の主人公も父親が殺人罪で服役中で、それが数十年前の事件にも関わらず、彼女は街中で嫌がらせを受けたりするんですね。ましてバリーの場合、先日まで学生だったのですから学校という閉鎖空間の中で殺人者の息子、父親に母親を殺された子どもという存在がどう扱われたかを考えると、殺人犯の関連人物への正義の行使みたいな目に遭うことは明らかで、そうでない場合も過剰な同情というフィルターのかかったコミュニケーションとか、雷に打たれなくったって、彼、普通の人生を歩んできたはずがないんですよ。そりゃ友達もいませんよ。彼が友達を欲しいと思っても、幼少期の社会との断絶が各々に流れる時間を変えていって、ズレになる。それがフラッシュの能力を手に入れたらズレは圧倒的なものになる。ブランチがランチになるの話、おかしいけど、この感覚の隔たりを笑う資格のある奴がどんくらいいるんだよって話ですよ。私、しんどかった。私はもうこの隔たりに対して卑屈になってばかりだけど、バリーはとても明るい子で、自分にできることを探り、目的に向かって進み続けているんだもの。父親の無罪を晴らすために、ねえ。これ場合によっては父親を恨みますよ。それがフラッシュの能力をちょっとした悪党をやっつける行動に活かしたりできるんですよ、この子は。壁の中の父親は頑張ってバリーの心をケアしてきたと思いますよ。彼は傷を持っているけれども、あの年頃の青年がはしゃぐだろうものに、彼が友達になれなかった青年らと同様にはしゃぐことのできる精神性を持っているんですよ。それがバットマンにちょっとした変化とか与えてるじゃないですか。彼が戦場で一般人ではなく本来自分でなんとかすべきの他者を気に掛けて助けたりするんですよ。バットマン自身は仲間が自分を助けに来るなんて想像もしてなかったのに、でも彼は既にフラッシュを自分の心の中に入れていて、助けたんですよ。すごくコミカルなやりとりに見えたけど、あれはちょっと驚くべきことのように私は思えたんですが、これ、私が今回の映画の関連作品をあんまり観ていないせいですか!? 間違っていたら教えてください。

と、まあ、ね、彼らの傷について語ってきましたけど、そのなかで正義を体現できるスーパーマンは特別な存在なんだよねっていう。そりゃねえ…異星人なのにスーパーマンは最初から地球の為に戦ってくれてるんだもんねえ。その正義の力の振るい方が派手で一般市民に被害を出しまくって、前回のBvSだった訳だけど、でも彼の正義の心っていうのは、今彼が住んでいる地球という地を愛する心だってのは、映画の冒頭から示されてたもの。

だからね、彼がいることでジャスティス・リーグはジャスティス・リーグとしてスタート地点に立つのかなって私は思ったんですよ。戦いが終わって横並びに並んだ時に、ようやく彼ら一人一人がヒーローというレッテルを背負った存在になったのかなって。

今回の敵は、ジャスティス・リーグが成立するために戦う相手、スーパーマンが復活する道具としての登場っていう感じがして、どうしてもこの敵が登場しなきゃいけなかった欲望とか熱情が危機感として伝わってこなかったのですが、説得力がない訳じゃない。そもそも登場の理由はスーパーマンの不在にあるわけだから、映画とか物語の枠組みはちゃんと支えてくれたように思えたのですがどうでしょう。

ちなみに今回のヒロインはナイト・クローラーちゃん。頑張って、んしょ! んしょ! って動くロリ系ヒロインです。