「ダンケルク IMAX版」感想



映画と、映画を観ている自分の距離感が、ここのところの映画の中では一番適切に感じられた映画です。映画として、作品として目の前のものを味わうことが出来て、それが自然で心地よかった作品。「ハイドリヒを撃て!」で映画の中に呑まれてしまうのも、望んで没入できるものでもないので、とてもいい体験でした。しかし内容的にも消耗しきってしまう部分があったので、今回の適切な距離感は擦り切れた心にもありがたかったです。

いや、目の前に広がる光景の美しさたるや。空からビラの降るダンケルクの街中。よく晴れた広い広い浜辺と青い海。曇天の、心の詰まるような薄暗さ。夜明けの薄青い空気。黄昏の浜辺の上を静かに滑空する戦闘機。桟橋の上、波打ち際、兵士の犇めきあいパンを齧る船室も、暗い船倉も、空気が手に取れるよう。

そして音の威力。実際に鳴り響く銃声や銃弾が鉄を貫通する音、爆撃音、船の軋む音、容赦のない波の音、水の音、シュトゥーカが空を切り裂く恐ろしげな音。空へゆけば、英国の戦闘機スピットファイアが弾を撃ち出す音、また被弾する音が腹まで響く。それら全てを包んで肉体から精神まで圧し、食い込む、映画の音楽。というより映画そのものが観客に囁き、おめいてくるような重層的な音の圧迫。

こうして振り返ると充分映画に呑まれているような気がするけれど、人の死にいちいち立ち止まって血を吐いてしまうような苦しさがなかった分、この映画はエンタメというか楽しむ映画の側でした。全ての映画が苦しみを観客に食いこませるものでなければならない、ということはありません。だからダンケルクは立ち止まらなくてもいい。街を抜け、浜辺に辿り着き、船を掴んで、故国の地を踏む。そこで毛布や紅茶やビールで出迎えられる。暖かな日の下に帰ってくる。首相のねぎらいの言葉と歓声の中に帰ってくる。その道のりを一緒にする映画作品で、私はこの映画を素晴らしかったと言いたい。

物語的に感情を煽り立てる、科白で説明する、ということを全く行わず描いた映画としても好もしい。この映画にはその手法が一番合っていたのです。浜辺の一週間、静かな行列、忙中閑ありとも呼べるような兵士の虚ろで何もない時間。板を一枚渡しただけの桟橋を怪我人を運ぶ若い兵士が渡り切った時、その両岸から沸き立つ歓声。急降下爆撃機の空を切り裂く音に身を屈める兵士たちの波のような動き。全ては言外に数多を物語り、光景と共に観客に滲みこむ。本当に良い映画体験だった。

以下、ちらほら思ったことの書き留めを。

皆がざわざわしている金髪のパイロットさん、私も例にもれず落ちました。ファリアのこと大好きだな、あんた!

「ハイドリヒを撃て!」でも主役を務めた、遊覧船に救出されたパイロット。あの人の演技力凄いですね。渋く、味わいのあるパートの一番は海組だったかと思います。科白の情報量が陸、空に比べて多いせいかもしれません。

ダンケルクの救出戦に運命を左右された人々。まさしくその通りで、兵士も、高官も、民間人も戦争に巻き込まれたからには、どうしようもなく運命を捻じ曲げられてしまう。ダンケルクの40万人の兵士の内、あっけない死、苦しみを伴った死による唐突な終わりを迎えたものが何万人もいたのだ。死も生も数で語り始めると、自分の脚が絡まった綱に絡めとられて動けなくなったような気分になります。対比してよりよい数を得るというのが戦争を動かす者の思考だし、今回も映画のこちら側で観ている観客の自分は想像以上の生存者にホッとしているけれど、ダンケルクの浜辺に出ることのできなかった兵士も、桟橋で死んだ兵士も、せっかく乗った船が沈没させられた海に投げ出された兵士、海に投げ出されることもなく鋼鉄と水に閉じ込められて沈んだ兵士もいる訳で。これら兵士の死に足を取られることがなかったのは、ドイツ軍兵士が人間の姿を取ったものとしては一切描写されなかったことは大きい。

光景の美しさ、生身の敵の不在、流血と血臭や腐臭が描かれなかったことを含めて、私は、ダンケルクがエンタメ作品であっても構わないと思う。この映画は歴史的事実としてと言うより、この映画が描かれるべきようにして描かれたとても良くできた作品だと思う。

戦争で「よかった」なんて言えることなんかないけど、生きて帰って来た人に「それで充分」と言って毛布を渡すことのできる人間の行動に、人間の心に、まだ期待している。物語を求め、書く。