「ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦」感想



きっつい。

今年一番きっつい映画だった。

けれど最近映画を観ていても心の中でツッコミを入れるような距離感をまったくゼロにしてくれた映画でもあった。気がつけば呑み込まれていた。凄い映画に出会った時、私は時々不安になる。急に静けさが戻った瞬間、ついさっきまでスピーカーから溢れていた轟音に合わせ、自分は声を上げていたのではないか。ひどく、ひどく不安になる。今、悲鳴を上げていたのは自分ではないか? 呆然と映画館を出る。何度も振り返る。人混みから抜け出して周囲に視線を走らせる。まるで自分が占領下の街を歩いているかのように。

学生時代、歴史が苦手だった自分もナチス高官のラインハルト・ハイドリヒ暗殺についての知識があるのは、ホリエカニコ著『第二次世界大戦紳士録』のお蔭。それによるとハイドリヒ暗殺後、最も喜んだのはナチスの幹部たちであったと言うし、暗殺の成功がそれなりに達成感や希望を示すものになるような気がしていたのである。このタイトルだし。作戦成功に向けて謀略、暗躍、男たちの生きざまが熱く描かれそうな感じがするじゃありませんか。そう、タイトルからイメージされる映画の雰囲気とは…違ったんですよ。それを悪いとはちっとも思わないけれど。

暗殺するまでも大変だったけど、してからがもっと大変だった。そう、見る前は希望を示すパートになるのかと思われた部分こそ、きつく心にのしかかる。いくら幹部は喜んだとは言え、ナチスとしては支配下に置いている人々の反逆によって高官を殺されたのだ。すぐさま報復がされる。犯人を匿ったと噂されただけで村が一つ消される。その報せを聞いても作戦を遂行した彼らは、誰かを助けに行くことはできず、教会の地下でじっと息をひそめるしかない。そしてナチスに取り囲まれた時、ただ命を捨てることはできない。戦い続けなければならない。自分の命を、自由を、簡単に渡してはたまらないのだ。その自由を取り戻すための戦いだったのだから。

人生の最後には死が待っている。誰に対しても。映画の登場人物であるチェコの人々の多くは最後まで己を手放さない。己の意志で加担し、口を噤み、青酸カリを含む、あるいは銃口をこめかみにあてる。人生の最後の時間だどれだけ苦しかろうとも、己の肉と魂を自分のものとして生きる。観ながら妙な感情が湧いた。暗殺の実行者、協力者、彼らがちゃんと自殺を遂げられますように、と心底祈っていた。妙な感情だと思った。感情的すぎる感情と思った。こちらが勝手に望む自殺に至るまで、彼らは死を乗り越える辛苦を味わうのに。彼らに与えられた死は安らぎとは少し違う。自分の人生を生きるための最たる困難。死の際の最後の最後まで意志がある。意志しかない。

その意志を頑ななまでに貫き通させるものは敵対するものの恐怖であることにも間違いはない。ナチスという集団に限った恐怖ではない。敵と定めた相手に対し平気で無慈悲になれる者への恐怖だ。同じ形をした存在が目の前に立っていても、それを人間と見ず、どんな行いや仕打ちも自分の中で正当化してしまえる者・集団への恐怖。憎悪。今だって、そこかしこに見えるもの。だから私も怖かった。死体を蹴る姿に心から嫌悪した。

知れば、物事は何でも単純には語れなくなる。チェコの暗殺者が死ぬたびに痛みを感じたのに、ドイツ軍の兵士が死ぬとホッとしていたではないか自分は。今度、ドイツの側から見た映画を観たら、今度はドイツ兵士の死に胸を痛めるのだろう。殺していい人間なんていない、と月並みな言葉を繰り返してみる。そうだ。帰宅して観たGotGのクリーの兵士だって、いくら人外デザインだからとて「殺していい人間」と張り紙された者は一人もいない。だから人の命を掴む行為には責任が発生する。人を殺すには覚悟が要るのだ。