「野火」感想



ああ、なべて映画とは映画館で体験するべきものとや。

8月15日、私は在住の町から1時間半離れた市内にて一度きり特別上映されるこの塚本監督版「野火」を観るために希望休を取ったのです。お盆渋滞に加え、前夜の豪雨で高速道路が通行止めになるという不幸が重なり、私は映画館にさえ辿り着けませんでした。結果、DVDでの鑑賞。その感想。

 飢えて乾いて干涸らびた肉体からも血がだくだくと流れ出る。

このだくだくと流れ出す血、暴力により変色した肌というのが塚本作品に触れる際の強烈な印象で、見続けるつらさ、精神的負担であったと記憶していたけれども、それはこっちに突き刺さる切っ先であって、刃をぐいぐいと押し込んでくる力はそれら以外にも存在する要素だったのだと、気づきました。

耳から入り込む狂騒。肉体の表面を内側からビリビリに破いて暴発する精神。狂っているのだと思った。しかし狂っているように見えるその心の根源は正常でありたいと叫び続けている。が故に正常を求める心、熱せられ、それをのみ求める心、狭窄し、気づけば狂気に変質しているのか。

否、ずっと心は正常でありたいと求めていて、変わっていない。境界の明確な線引きはない。完全に狂うてしまえない人々は、あの常夏の島の鮮やかな緑の中で、濃い夜闇の中で、確実に死に向かっているのに何故かこの瞬間生きている、空腹を感じ、策を弄したり欺いたりする、その現在の生から死ぬまでの時間と同じ距離だけ開いた正常と狂気の狭間でどちらでもあるどろどろの熱を身体の中に巡らせている。死の瞬間、それは溢れ出す。ようやく違うものになれる。でも生き続けている間は、どちらにも辿り着かず、両方、やる。隣の人間を殺さないという正常な行い、殴ったり奪ったり傷つけたり殺したりして食べること。

これをやれと誰かが命じたのだ。こうやって消耗される命の数が誰かの体面を保ったり、その場しのぎの報告となったのだ。でもそこにあるのは、消耗される命の周囲にあるのは死ぬまで生きる肉体の手の届く範囲のもの。混沌とした感情。命は爛漫たるほどに緑を生やし花を咲かせるのにそこには飲める水も食えるものもない。両手の届く範囲には何も無い。何かあったら選択しなければならない。生の芋を食べるのか、否か。銃を撃つのか、否か。殺すのか、否か。食べるのか、否か。しかしそれらは決断というよりもどろりと押し出される熱によって行為される。この両手の範囲のもの、自分の中からどろどろと流れ出したものを全部叩きつけ、耳から目から流し込む。流し込まれるために、これを観ている。

帰国して、清拭された畳の上にあっても、過去とは隔てられない。窓の向こうにまだ燃える炎が見える。体験を孕んだ肉体は延長された死ぬまで生きるしかない時間の中でも、正気を望んだ狂気の光景を見つめ続けている。消えることはない。