「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」感想



観終えてようやく気付く、あっ、この映画はヒーローものだったのか。

きっと観終えて気づくくらいでちょうどいい。ヒーローとしての物語は映画の終わりと共に本格始動するのである。だからと言ってこの映画の続編を期待している訳ではない。この映画はヒーロー誕生の前日譚なのだ。しかし風合は他のヒーローもの、具体的にマーベルやDCとははっきり違う。匂いも、手触りも。

主人公は街のゴロツキ。裏街道の男だ。しかも冴えない。対する敵もローマのギャング。しかも下部組織。悪対悪の構図はダークヒーロー云々と言うより、ぶっちゃけた話、割と狭い範囲での物語で、尚且つ、志が低い。映画の9割の時間、志が低い。でも、そうなのだ。これは志の低い男がヒーローとして目覚める前日譚なのだ。

この主人公、映画冒頭でひょんなきっかけからスーパーパワーを手に入れる。ヘマをして追われ、謎の化学物質の詰まったドラム缶にドボンしたのだ。王道ヒーロー映画でも、主人公がスーパーパワーを手に入れるきっかけは描かれる。スパイダーマンだったら蜘蛛に噛まれるし、スーパーマンは身寄りのない赤ちゃんとして田舎の夫婦に拾われる。問題はその後だ。王道ヒーローたちが善き方向に力を使おうとするのに対し、この主人公、スーパーパワーを手に入れたと気づくや否や早速夜の街に飛び出してATM強盗をするのだ。志は低いが、ゴロツキという現状から力を使うべき状況を判断するに迷いがない。いっそ潔い。しかもATMを壁面からずっぽり引きずり出して、機械ごと抱えて盗んでいく。雑。しかし持てる力を最大限に使った効率的な方法と言える。その場で壊してバラバラの紙幣をスポーツバッグに詰め込むのは手間だものね。しかも得た金で手に入れたのはお気に入りのフルーツヨーグルトを冷蔵庫いっぱいとポルノDVD。更に現金輸送車強盗を重ねる。志が低い。

やってることは犯罪だけど、誰が志の低さを詰れようか。超人的な力を手に入れたからとて万人に尽くす義理はないのである。王道ヒーローたちが正義の為に働いてくれるのは、彼らが身を置く環境故だ。クラーク・ケントは地球人の両親から愛情いっぱいに育てられ実の父から高度な教育を受け、ピーター・パーカーはスタークさんから投資を受け導かれたからこそ正義のヒーローになったのだ。良いことも悪いことも両方するガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが結果的に銀河を救うのは僅かであれ、見えにくいものであれ、彼らの中に愛情が存在するからなのだ。今回の映画の主人公には愛情が欠落している。映画中、そして彼の人生の9割の時間で。テロの報道、社会的ニュースを遮断し、ひたすらポルノDVDの流れる部屋で過ごす男。

と、主人公の志の低さもさることながら、更に志の低いのが敵であるギャングだけど、まずギャングと言っても下部組織であり、しかもボスではない。せっかくカリスマティックな風貌を持っているのに、野望はYoutubeでヒーローになることで、ネット上で話題になる主人公に嫉妬するなど本当に残念。周囲にはまだマシな頭の悪党もいたのだが、それも溢れ出す狂気で粛清しまくり、映画の半分は血で血を洗うにしてもカタルシスがこんなにない殺し合いもあるのかしらというギャングの内ゲバ的抗争がメインで、しかもこの暴力がエグイ。この映画が一応ヒーローものであることを忘れさせる。

スーパーヒーローがスカッとスーパーヒーローたるところを描くのが王道ヒーローもののいいところなのだ。この映画の現実的な志の低い主人公が虚構のヒーローの名を背負い、最後はその姿になって街へ飛び出してゆく姿は夢を見せるものではない、でも、ヒーローたちが生まれる中であってもいい、あったであろう、あったとしても語られはしなかったものを描いたところは一つ、この映画がひっそり覚えられてもいい理由であると思う。

ちなみにこの映画、冒頭のタイトル日本語で「皆はこう呼んだ鋼鉄ジーグ」という文字がバーン!と出てくる。吹き替えでもないのに珍しい演出……と思っていたら、これがオリジナルなのだそう。正直このオープニングタイトル、満点です。