多良見ICまで






 白い指がぐいと耳を引っ張る。気まぐれな戯れかと思ったからぎりぎりと音のするかと思うほど引っ張られて驚いた。思わず声を上げた。しかし白い指の持ち主は笑顔で耳を離さない。白いレースの手袋を越しても爪の食い込むのが感じられる。それも痛い。
「何、するんだ」
 横目に睨みつけると、あら、分からない?と少し目が見開いた。
「心当たりもないのかしら」
「ない」
 即答するとさらにぎゅうっと力が入って、佐賀は引っ張られる力に首を傾けながら声を上げる。
 ない、と言い切るほど清廉ではない。心当たりだらけだ。それでもないと返事をしたのは、我が罪は我が前にありと言わんばかり。我が咎を知る佐賀である。過去の罪は忘れねばこそ口には出さず、近々に至っては彼女を怒らせるなどもってのほかである。蝶よ花よと甘やかすだけの材料も持たないが、それでもだ。
「本当に覚えていないのかしら。散々私のことを弄んで」
「は? 何を」
「パンティを穿いているの穿いていないの、随分なおかずにしてくれたそうじゃない」
 その一語にはすぐさま思い当たった。あれかという表情と、感づかれた、しまったという表情と、すぐ表に出た。出たが慌てふためいて言い訳もしない。眉根を寄せ、しかつめらしい顔で「…別に」と答える。
 長崎はノーパンティだのどうのという話をしていたのは佐賀ではない。熊本と福岡だった。更には熊本が言い出したことであった。二人とも房事の後での戯れ言である。そも福岡も熊本も、色事に関しては大いに興味のある方だし、それは皆に知れていることである。酔っ払った二人の会話に比べればそよ風のように爽やかなものである。とはいえ長崎のことでしかもパンティがどうこうと秘されるべきところをあのように語られては佐賀は我慢ならないからすぐさま駆けつけて熊本を叩き斬るつもりいた。鹿児島の乱入により未遂に終わったものの、長崎の名誉を考えての行動と考慮してもらえれば責めらるるところは本来ない。これらことごとを踏まえた上で語るべくも言い訳すべくもないと考えた。結果「…別に」の一言に落ち着いた訳だが、それを伝えるに圧倒的に言葉の足りぬ男である。
 だが長崎には分かっている。
 おそらく色々考えたのだろうと察してはいるが最後まで指先の力を緩めずぐいと自分の方に引き寄せて一言「聡い耳」と囁いた。
 ぱっと指先が離れ、佐賀の身体がふらつく。痛みとそれに逆らう力で、二人の身体はぐんと触れるほど近づいて、また離れた。
 佐賀は熱を持った耳を冷たい指で冷やした。耳聡い。耳聡くなければ護れもしない。そう思うがやはり口に出さない。口に出さないのだ、と長崎もこちらを見て思っている。
 するりと音もなく手袋が外され、大理石のような白い指が赤くなった耳に触れた。
「あなたのことじゃないわ。怒ることないじゃない」
「君のことだ」
「そのくらいの猥談丸山に行かなくったって聞くのよ。私が臆すると思って?」
 咄嗟に佐賀の口をついて出ようとした言葉は飲み込まれた。俺は嫌だ。そう言おうとした自分が頑是無いようで、奥歯を噛み締め、噛み潰してしまった。
「平気か」
「気に入らなければいつでもぶってあげる」
 きっと熊本も福岡も喜んで頬を張られるだろう。溜息をつくように横を向いた。
「そんなに嫌だったの…?」
 一段小さな声で尋ねかけながら長崎の身体が近づいて、膝がそっと触れている。香水のかおりがふわりと胸の上からを包み込むようで目を伏せたが、これ以上顔を背けることも離れることもできなかった。
 手を伸ばせば確かめ得る。そうでなくとも知っている。掌を拳に握り、息を堪える。が、いつまでも止めておくことなどできないからまた香水の――これは何の香りだろうか――においが鼻から頭の奥まで占める。男は眩暈を耐えた。
「…本当に」
 溜息が頬に触れた。香りが遠のく。佐賀は夢から覚めたように目を開く。冷たい顔の女が一歩、立ち去るところである。
「帰るわ」
 その時、ここが街中であることに気づき、人混みというほどの人混みもないが、通りから彼女の姿が消えたのに気づき、慌てて探す。タクシーを呼び止める女の姿があった。帰るのか。ここから百キロ近い道のりを。タクシーで。帰るならば仕方ない…。その時女が急に振り向いて、言った。
「度胸のないのは熊でたくさん」
 真っ白な素手をきつく掴んで引き寄せれば、タクシーは何故自分が車道の脇に寄せたのか分からず走り去る。人々の目は彼らを見ない。全ては遠ざかる。
「俺が送って行く」
 思い詰めた声が言う。
「それで?」
 女は聞き返す。
 男は女の手をとって自分の車へぐいぐいと引っ張っていく。助手席のドアを開け、彼女がきちんとシートに収まり、裾や袖を噛まないのを確かめてからドアを閉め、運転席側は乗り込むなり乱暴に閉めた。
「今日は帰らんぞ」
 シートベルトの金具をカチャカチャいわせながら、怒ったように佐賀は言った。女は窓に頬杖をつき、ちょっと微笑んだ。
「長崎」
 返事を求め強く呼びかけた佐賀の方にしっとりとした重みが加わった。あたたかい吐息と、唇を開く微かな音が鼓膜を打つ。冷たいような、柔らかいようなものが抓られてまだじんじんと疼く耳を食んで、まだ離れなかった。
「……な」
 呼ぼうとした唇を白い指が一本触れて塞ぐ。
「これは、ご褒美」
 佐賀が振り向くと手指は佐賀の首をそっと抱き、なので佐賀が彼女の身体を抱き寄せた。唇を食まれる。思わず手を伸ばす。触れる。
「それは」
 女の指は容赦なく頬を抓った。
「後で確かめて」
 なめらかな曲線。分かってはいる。顔を真っ赤にしてエンジンをかけると、長崎が声を上げて笑った。
「真っ赤よ」
「そんなに笑うことはない」
「違うわ」
 大きく斜めに傾けられたバックミラーの中、赤い唇をした男が映っている。男はギアに手をかけた。女はまだくつくつ笑っている。ミラーを元の位置に戻し、男はエンジンを踏み込んだ。




2015.1.29 しゃさんの県擬の二次。現代。