雷光・冬




 まどろんでいたのがハッと。
 遅れてやって来た銅鑼の音。ズズンと地鳴りがする。落ちたようである。
 海はとうにビュウビュウビュウと荒れていて、風に千切られた波の白い飛沫が雨と混じってまた海面に叩きつける。波音も雨の音も、身を捩って荒れ狂う風の音も恐ろしいばかりだったが、ここへ来て真打ちがズドンと落ちた。
 カーテンに厚く遮られても尚、溢れ出す光である。枕元の衝立は既にその本来の役割を忘れたような、惰性で置いていたものが、光の直撃から守ったのだった。しかし女の眠りは破られ、男も目を覚ました。
 もう一度来た。
 この世の終わりの静寂を色にしたらばこんな白か。さっと一瞬照らし出す。雲の中で銅鑼が鳴り、豪と音を立てて坂の上、山の上へ一直線。ピシャンと弾ける。化け猫の鳴くような…、と男は思う。耳を聾し、男が眉を寄せるその音が去ると地面をズズン、ズズンと地鳴りが伝わる。また、落ちた。
 夏であれば珍しくもない。ちらりと目を覚ましたとて眠ってしまうだろう。それが冬の嵐となるといやにぞっとした凄味がある。
 女は衝立の作った闇の中で目を見開いている。手がぞわぞわと別の生き物のように男の胸を這った。鼓動する場所を探し当て、手は容赦なく爪を立てた。
「…おい」
「痛い?」
 女は小声で尋ねた。
「じゃあ、生きているわね」
 女は尚も目を見開いていた。まったく眠る気配ではなかった。じっと、静かな息をしていた。衝立の影で息を潜めるような、浅い呼吸。
 唇に。
 触れようとすると女が顔を逸らした。男は手を伸ばして襦袢の上から女の乳房を掴み、もう一度唇を近づけた。唇は喉元に触れた。
 嫌よ、風邪を引くわ。女が気のない声で抗うのを男は聞いたが、相手がせっかく着たそれを剥くのをやめなかった。女は身体を捩る。逃げようとしているようでもある。そうではない、とは自分の思い込みかもしれぬと男は思う。
 女が両手をばんざいに上げ、あらわになった脇に、胸に、遠慮無く顔を埋めながら、裸の背の向こう、空が荒れ狂うのを聞く。海の低い唸りは女の身体の奥から聞こえてくる。太股に手を伸ばすと、女は見開いていた目を伏せた。物言わず、それを擦り寄せた。男は女の内股に唇をつける。頭上で、嵐の中、そっとため息が落ちる。


雷光・夏




 夏の暮れの、動くのも億劫な重たい身体の上、凪の終わりを知らせる風がさっと吹きわたった。長崎は蒲団を掴んで小さく猫のように唸り、ゆっくりと瞼を開いた。眼下には静かすぎるほどの夕景である。
 開け広げた縁に裸の男の背が影を作っている。人ではないから、あまり焼けていない。が、夕焼けは男の白い肌も焼いて染める。手を伸ばすと汗はとうに引いて、男の肌の上ばかり早い宵闇が撫でたかのように涼しい。腰から尻をなぞると男が振り向いた。少し目尻の垂れたあたり、色気がある。笑うとそれが愛嬌になる。滅多に笑わない。この男は不愛想ではないが、いつも一人で涼しそうである。
 振り向いた男は笑っていなかった。長崎が蒲団に伏したままの億劫とは違うようだった。めらんこりあ、と女は胸の中で呟いた。書架を占める異国の言葉の異国の歌のどこかから引き出してきた言葉だった。長崎は微かに唇を動かした。すると男はかがみこんで女に唇をつけた。ふくおか、と名前を呼ばれたものと思ったのだ。色気の滲んだ憂鬱が笑みに変わった。めらんこりあはパッと散る。見えなくなる。
「雨が降る」
 低い声が囁いた。
 男の首筋に、もうその匂いはかいでいた。
 月の出る前に、暗雲は空を隠してしまった。遠い沖でパリパリと小さな稲妻が走るのを見た。男は素裸のまま、女は蒲団の上にしどけない姿を晒し、雨が来るのを眺めていた。海を走ってくる。さああっと白い足跡が立って、陸に上る。坂を駆け上がる。まだまだ小走りの様子。それが山にぶつかった途端、ざんと落ちるように激しく降る。
「ほら」
 男がギヤマンの瓶を傾ける。同じように作られた小さな透明の盃に受けると、血のように赤い液体が流れ込んだ。女はくっと飲み干して、濡れた唇に指をやった。かすかに赤く濡れた指を男が吸った。
 刹那。音もなく満たした光の真昼より明るいこと。青白いこと。その中にじっと自分を見つめる双眸を長崎は見つけた。めらんこりあ。塗り潰す光の中に仄かな青い影。
 光はピシャッと音を立てて弾け、ぐわらぐわらと崩れる。山の上から銅鑼を転がすがごとき轟きである。男が覆い被さり、女の上に影を作った。結界のつもりだろうか。女は優男の、しかし逞しい腕を掌でなぞり上げた。怖くないのか、と男が尋ねる。尋ねながら唇は頬に触れている。ちっとも、と女は答えて男の首を抱き寄せる。
「怖くなんかあるものですか」


遠雷




 蝶の羽の形をした青白い炎が舞う。長崎は息を呑む。己の手から炎は立ち上る。白い手袋が燃えて青白い炎となり、ゆらゆらと天を目指す。悲鳴さえ口をつかない。熱が、喉を封じている。
 天に昇りながら炎は散り散りになる。七色の光になる。
 耳元で弾けるこの音は何だろう。パシ、パシ、と樹の燃える音。鉄の折れる音。何かしら。
 ああ、暑い。
 汗が見開いたままの目の中に流れ込む。瞼が閉じない。熱い。青白い炎は着物にまでとりついた。
 燃えているのは私の傘だ。折れるのは私の傘の骨。
 パシパシと音は響き、七色の光は輝きを増す。
 長崎は喉の奥で呻いた。
 頬に風が触った。長崎は自分が薄暗い闇の中にいることに気づいた。ゆっくりと瞼を開くと、テラスは薄闇の中で、カーテンが風に煽られて揺れていた。頬に触れたのはこの風だった。雨と一緒に運ばれてきた風だ。
 カウチからゆっくりと身体を起こす。寝汗が脇の下を伝う。長崎は襟から手を差し入れ胸に触れた。身体の内が熱い。激しく脈を打っている。手は汗に濡れたのが風に晒されてひやりと冷たかった。馴染みの痛苦が胸の奥で疼いていた。長崎は目を伏せて、静かな呼吸を繰り返した。雨音。時々、遠くから雷鳴が届く。海の上で暴れているものだろう。ここからは遠い。雲の隙間に紫電を垣間見る程度である。
 雨はさらに激しく打ち込もうとしていた。長崎は窓を閉め、冷たく濡れたガラスに額を押しつけた。喉の奥につかえがあった。しかし自分はあの業火の中でも、繰り返す夢の中でもそれを叫ばなかった。
 助けて、などと弱音を吐いたことはない。男の腕に護られた時代は遠い昔のことだ。
 それでもたった今。本当に今この瞬間、一瞬だけでいい。
 自分を護ると乱暴に抱いたあの腕に攫われたいと。
 身体の奥から熱い息を吐き出す。夕立の暗い窓に自分の瞳が映っている。己の冷たい瞳に責められているようで、長崎は目を伏せ、窓辺から離れた。静まりかえったカーテンの向こうで時々、遠い雷がピカピカと海上を照らしていた。






2015.1 しゃさんの県擬の二次。江戸時代後半と、昭和。