紅のしゃぼん







 さやさやと流れる音が耳を撫で、やってくるものを退けるように福岡は手を払った。途端に今のできごとが夢だったのだと薄く覚醒した。
 衝立の影にいる。天井が明るい。洋式の寝床は雲の上に寝るような心地で悪くはないが、地に足をつけてこその存在なれば不安ということか、あまり寝られなかったのが両の目蓋の重みに分かる。足を下ろし床が冷たいのにホッとする。雪解けの季節とは言え春はまだだ。浅い、浅い、と呟いて窓を開ければ港は静かにきらめいている。船の姿もほとんどない、冬の景色である。見慣れた帆に見慣れた船影。細波が反射するのはもう傾きかけた陽だった。少し休んだばかりと思うていたに。
 港にちらちらと小さな人影がある。その中で笑い転げている女がいる。笑っているのか、と福岡は溜息をついた。上から羽織ってもまだ寒い。だがそのまま部屋を下りる。鏡に映った己の姿がちらと見えた。首の細さは知っておる。見下ろせば足首にもその細さは表れている。だからどうしたと。俺は福岡だ。台命が下り、この長崎の港にいるのだ。一年を護るのが俺の役目だ。険しい顔をしたのであろう。港に近づくと子供らが潮の引くようにさっといなくなって、女一人が午後の陽の下にぽつんと取り残された。
「もう、よろしくて?」
「ああ」
「お腹は?」
 昼を食う前に倒れたのだったか。記憶さえ曖昧だ。長崎が眉をひそめた。福岡は長崎の手にしている細い管を取った。
「妙なものを持っている。わらしべ長者をやるつもりか」
「シャボン玉よ」
 わずかにポルトガル語の訛りを滲ませて女は答える。福岡の手にしたものに顔を近づけ、片側を唇で挟んでふうっと吹いた。薄い膜がみるみる膨らんで丸くなったと思ったら空に浮いている。そうして立て続けに二、三が宙を舞った。長崎は福岡の手を引き寄せ、管をシャボンを溶かした水につけさせた。花の匂いがする。シャボンでだけかぐ花の匂い。異邦の花。かつて購入した美しい絵入りの本の中にあるそれを福岡は実際に見たことがない。
 また長崎が吹いた。福岡は、今度は自分で吹いた。シャボン玉は玉色に光る。桃にも青にも黄にも見える。そこへ鮮やかな赤。
 あっ、と小さな声を上げて長崎の表情が凍った。福岡はシャボン玉を指で割った。指先は赤く血に濡れた。
「あなた…」
 白い手が口元を拭う。唇に紅差したと思えば笑ってもやれる。事実、福岡の手は女の柳腰を抱き寄せている。女の目に青ざめた己の顔が映っていた。喉の奥を血の味が撫ぜたが福岡は笑った。
「腹の減った」
 耳に赤い唇を近づける。
「喰いとうなった」




2016.11 しゃさんの県擬の二次。