また春来たりてさくらさく







 カーラジオのスイッチを切れば一面の青空から静寂が降ってくるようで北東に下る国道44号の路面もスムーズ、空でも飛んでいるような気がした。運転する軽トラックも空色に塗られている。ぐるりと首を巡らせてリアウィンドウまで余所見。緑の原が見えるから地に足はついているらしい。根室に近づくにつれ雨雲が退けていつのまにか一片の切れ端もない空の下を走っている。九月らしくぽかぽかした陽気が車内に満ちた。ペットボトルの中身がわずかにぬるい。助手席側の窓を開けると冷たい風と潮の匂いが待っていましたとばかりに吹き込む。
 軽トラックのスピードを百以上に上げ走る姿は同じ道路を走る他の車となんら変わったところのないように見えるが、行き交った車の内何台かに一台はふとすれ違った空色の軽トラを振り返った。
 北海道、という男。
 作務衣を着ていれば何故か庭師に間違われ、洋服を着ていれば土建屋に間違われる。頑強そのものの体躯と朴訥ななりから、街中にいても片田舎にいても、草原の只中だとて人と同じように馴染む姿だった。しかしエゾシカをはじめとする冬の森の生き物の証言するアイヌの民族衣装のベストドレッサーであるという意見は無視できないものであるし、日本海の波によればロシアの酒場での目撃証言が寄せられているとのこと。果たして今は軽トラックの見せるわざか、配送を終えた帰り道の農家といったところ。潮風を懐かしげに吸い込む横顔はごつごつした印象がその鷲鼻でやわらげられて気安い。
 束の間の静寂は風の音にさらわれ、北海道は青空を越して更に上空を行き交う大きな風の流れを見た。長く生きていれば様々な奇妙を目にするもの。けれども今年の台風はとりわけ奇妙で降る雨も溢れた河ものんびり見物できる代物ではない。特に人間にとっては。北海道は……以前なら在るがように任せていたはずだがこういった暮らしを始めたからには放っておくこともできない。行ったところで何の役に立つ訳でもないけど、まあ別に他の仕事がある訳でなし。それにポテトチップスが食べられなくなるのは一大事であるし。一番丈夫な軽トラを車庫から出して各地方を巡る、根室はそろそろ終点だった。
 国道44号が終となる少し手前を左へ曲がる。中心部よりもやや南、住宅の多い中を海目指して走れば護国山清隆寺。三十三観音と三十六不動尊の霊場だが根室市一の桜の名所と言ったほうがとおりがよい。目指した診療所は寺よりほど近く、車を下りて振り返れば丹色の屋根がぴょこんと飛び出しているのが見えた。
 表には先代が建てた当初からの木製看板。木曜休診の文字が他より黒々と新しいのは以前「本曜体診」と落書きされたのをペンキで塗りつぶして新たに書き直したからである。携帯電話の画面を見る。昼は過ぎたがまだ午前最後の患者が残っているかもしれない。扉を開けるとがらんとした待合室に蝶番の音が響いて思い出したように看護婦が顔を覗かせた。
「やあ」
 北海道が笑うと看護婦の口元が綻んだ。
「若先生はまだお仕事中」
「はい。お待ちになられます?」
「いいよ。午後も医師会でお忙しいだろう。おじいちゃんは薬剤室かな」
 そこへちょうど診療を終えたご近所がトレーナーをなおしながら現れる。その背後の長身に手を振ると相手はばつが悪そうに会釈した。落書き小僧はそれを見つけた男にいまだ苦手意識を抱いているらしい。ご近所の中年が会計をすませる間、北海道は待合室のベンチに腰掛けて待った。病院の椅子はいつ座っても不思議と心地がいい。膝の曲げ具合の塩梅がいい。
 日陰はもうひんやりとする。北海道は腹を撫でた。少し空腹だった。表に出るのを患者も看護婦も気にしない。白く塗られた壁を日の当たるほうへ周れば敷き詰められた砂利が男の重量を受けて重々しく軋んだ。出窓の張り出した部屋は調剤室だ。内から見れば日が当たり白く光って見える部屋だが、表から見るガラスは涼しげな青い影となる。庭は裏手の母屋まで続いていた。背の低い樹に濃いピンクの花弁。花が咲いている。
 千島桜の低い樹に北海道は掌を触れさせた。厚い皮をとおしても目を覚ましたばかりの桜のみずみずしさが伝わった。ひやりとこちらを見つめている。珍しい客人だと。珍しいのはおまえらだぞ、と北海道は心の中で呼びかける。十月桜でもないものを。桜前線の話をすればオチに必ずやってくる千島桜。開くのは四月も末であり、この九月の終わりは遅い開花としても早い開花としても突拍子もない。尻のポケットに突っ込んでいた電報を取り出した。釧路で受け取ったもので、全文片仮名。「マタハルキタレリ」。呪文のようなその言葉の意味がここで分かった。初恋を思い出したような気分だ。それがいつの、どんな出来事を指すのか自分でも分からないのだが。
 気象台はこのところ寒暖差に注意を呼び掛けていた。確かに北海道も台風銀座さながらの月半ば、朝から冬の匂いをかいでカレンダーを思い出してはぞっとしたものだ。流石にまだ早いんじゃないのかね。そんなぞっとする寒さからこのぽかぽか陽気。樹皮の内でうとうとしていた命が目覚めたか。千島桜は北海道の肩ほどまでしか高さがない。それが横へ横へ這うように枝を伸ばし葉のぱらぱらと落ちかけたところに鮮やかに咲く花、一輪、二輪ではない。全体が淡く輝く。千島桜の満開は白色へと変化するのである。今、そっちに行きます、と後ろから声がかかった。振り向いた時、薬剤室の窓は閉じていて耳を澄ませば廊下を渡る足音がある。
 診療所は表は洋館風、母屋は昔ながらの日本家屋だったものをリフォームしたので和洋折衷の不思議な趣をしていて、洋風の屋根の下に縁側があった。まだ十分年若く見える白衣の男が籐椅子を勧める。北海道は手にしていた電報を振った。男はにやりと笑った。籐椅子にもたれあたたかい紅茶を飲みながら、なにを話すでもない、ぼんやりと庭を眺める。午後の陽を浴びて白く眩しい千島桜の光のあわいに、時々紅茶、時々ジャムの瓶の濃い色が映る。
「何があったのかと」
 北海道が呟くと男は鋭い眼差しのままにやにやと笑った。
「俺が老いらくの恋に身を投じたとでも思ったかね」
「カタカナなもんだから、読み違えるかと思ったよ。マハリキタ…?」
 妙にたどたどしいフィリピン語に相手の男は笑った。
「せっかく二度目の春だ。女にわずらわされるのはもう疲れた。桜はいい。黙って俺のことを聞いてくれる」
 二杯目の紅茶はうんと熱くして、ため息を吐いた男は籐椅子の背にもたれかかり居眠りを始めた。北海道は羽織っていた上着を男の膝に掛け、診療所を出た。私服に着替えた看護婦が裏口から出てきたので助手席に乗せて送ってやった。
「最初から半袖でした?」
「ううん。さっき上着なくして」
「寒くないです? 探しておきましょうか」
「平気。暖かいから」
 看護婦の家は根室を貫く大正町通を抜けた明治公園のふもとの団地で、買い物をして帰るからと大きな交差点の手前で下りた。
「明日はテレビが取材に来るって先生が。多分私は映らないけど、見てて」
「うん」
「また遊びに来る?」
「そのうち」
 運転席の窓枠を掴み看護婦が首を差し入れた。唇は頬を掠め、二度目に思い切ったように触れた。首まで赤くした看護婦が、じゃあね、とスーパーに向かってとことこ走り去るのを見送って少しもったいないような気がしたのは春心地の陽気のせいだろうか。国道を折り返し風蓮湖をすぎればしばらく海には出会わない。北海道は両側の窓を開け、ゆるゆると百に届かないスピードで草地を抜けた。日の高い内には次に目的地に着かなかった。
 弟子屈の温泉で生き返り、いつもは頭に巻いたタオル一枚腰に巻いて広い脱衣場のベンチに落ち着く。何度か呼んでいたらしく脱衣籠の中で携帯電話が震えた。画面に指を滑らせると夕景の中の千島桜が赤々と燃えている。忘れ物はいつか取りに来いと言い添えてあり眉を吊り上げた顔の絵文字。笑顔の絵文字で返事をした。
 夜空は深く澄んでいた。腹はひどく減っていた。行きずりの素泊まりだから、一度表にでてセイコマでおにぎりを調達する。ついでに隅のコピー機で受信したばかりの千島桜のプリントした。サイズが選べる。葉書のサイズに印刷し、せっかくだから誰に届けようかと旅館の畳の上でごろごろ考えた。頭上では夜半のニュースを喋っている。明日は全局チェックして診療所の桜を見なければ。看護婦は今頃どうしているだろうか。もう眠っているだろうか。半袖では寒く、その上から浴衣を羽織り北海道はごろごろと考える。
 二度目の春。そんな見出しのニュースを北海道は旭川で見た。清隆寺、明治公園、裁判所前の大通り、そしてあの診療所。テレビの中で見た花の色はまだ濃いピンクで満開はこれからのようだ。マタハルキタレリ。北海道は尻のポケットを探って、あ、と口を開けた。電報は診療所の縁側に置き忘れたままだ。それから札幌に帰るまで三度、桜の夢をみた。一度は看護婦と一緒に桜の樹の前に腰掛けてサンドイッチを食べていた。一度は桜の樹の下に眠る自分の上着を夢見、最後の一度、千島桜は黙って北海道の話を聞いていた。写真は結局、軽トラックのサンバイザーにクリップで留めている。




2016.9.30 しゃさんの県擬の二次。