フェートン号事件(一)







 月見船を出してもよい。
 凪が止み、背後の急な斜面を下って吹き下ろすのは肌寒い程の涼風であった。時折、強く吹く。天を掃くに箒はいらず、雲は一片の塵も残さず払われ清々しい群青の宵闇が広がる。眉の少し上、額の中程をひとつ、ふたつと佐賀は指で叩いた。明るく見えるものがあった。もうすぐ月が昇ろうか。それを後光のように、佐賀は一つの面差しばかり想っている。砂糖の味が舌に蘇る。仲秋の名月には、長崎は自分で作った菓子を振る舞う。いつもは人に作らせて食べてばかりいるのが、襷を掛けて奥に立つ。月餅の、表面の細かな文様まで己で彫る。焼いた表面を艶々と光らせることまでする。翌日は餡を練った腕がだるいと一日横になっているが。
 一日と言わず抱いてもよい。佐賀は額から手をどかし風の吹き遣る先を見る。港は明るく煌めいている。小夜波は月の影を散らし、踊らせ、入江は金砂銀砂を敷いたが如く。船の準備はある。女の姿はない。この月夜だ。港に出ていないということがあるまいと思っていた。彼女自慢の港である。己が美であり、彼女自身また愛でる美である。それを見にも出ないとは。
 風がとろりと足下を流れた。夏の名残の匂いがした。ふん、と佐賀は眉を寄せた。倦みはあるのであった。ここ随分とオランダ船の来ない年が続く。女は張り合いをなくしている。女だけではない。男もだ。夷狄の脅威に晒される彼女を背にし血を滾らせ炎の限りを尽くした、あの日々が遠い。どんな日々もつい昨日のことのように思い出せる、己は記憶力がいい、くそがつくほど真面目だと評される己のしかし美点と胸秘かに抱く矜恃に反して、あの日の記憶はぼんやりと霞がかるのだった。女が泣いたのが自分以外の男の腕の中であったからだろうか。だがあの日、許されざる船が彼女の美しい港を侵犯せんと波を立てたあの日、己は怒り狂ったではないか。血相を変えて駆けつけたではないか。あの怒りは偽り得ぬ。殺意を、佐賀は覚えている。がれうた船は全て焼き尽くしてくれる、異人など焼き殺してくれると、己は本気でそう思った。
 風に乗って三味の華やかな音色が届く。奉行所の役人だけではない、番所に残った者どもも今宵は月見と洒落込むであろう。今年も船の来ぬまま七月が終わった。佐嘉の城に座する男は兵を戻せと命じた。御番所に千人。船頭水主が六百人。船は四十艘を超えて配備する。当番年の受け持ちは湾を護るようにすぼまる太田尾、女神、神埼の三台場。更に道生田の煙硝蔵。金が、足りぬ。あっても足りぬ。御座間の男は己が遊蕩を棚に上げてこれらに渋い顔をする。結局ほとんどを帰らせた。長崎奉行も目を瞑った。どうせ船は来ない。出島に軟禁されたオランダ商館長のズーフは待ち侘び諦めようとしないが、そうして何年が過ぎたことか。佐賀も…故郷へ帰るだらだらとした行列を黙って見送ったのだった。火は、遠い。
 今、御番所に残った百人余の兵たちも浮かれている。耳に歌が聞こえる。故郷の歌ではない。この長崎の花街で覚えた戯れ歌だ。佐賀は踵を返した。昇った月が明るく足下を照らし出す。佐賀はその足を丸山へ向ける。
 花街を歩いても佐賀の袖を引く女はない。もてるたちではないと自身も自覚している。ここへは女を捜しに来たのだった。否、江戸のあの女ではあるまい。女遊びをする訳がないが、男遊びはどうだろうか。己の他にか。脳裏に福岡の顔がちらついて、ふん、と鼻から息を吹き出した。一年、ここにいる間はあの男の顔を見るはずがないものを。
「これ」
 と袖を引かれ思わずつんのめる。
「随分とお急ぎなすって。どこへ」
 優しい声音がしっとりと、重い。濡れている。
 振り返り、唾を飲む。紅色の格子から白い手が伸びて己の袖を掴んでいる。
 一歩戻る。たゆんだ袖を、手はくいと絡めて握り締める。
 紅色の格子の向こう、女がいる。太夫と見える。が、佐賀の瞼の裏の面差しである。
 長崎だ。
「ねえ」
 紅を引いた目元の、重たく伏せた睫毛がゆっくり持ち上がり黒々と濡れた石のような瞳が佐賀を捕らえた。
「誰を探しているの」
「君だ」
 正面に立ち、佐賀は答えた。手は思わず格子を掴みそうになったが、あまりに急いた様を見られたのが口惜しくぐっと堪えた。
「何をしている」
「遊んでるのよ」
「誰と。男を捕まえてか」
「玩具になる男を待って遊んでたのよ」
「見つかったか」
「あら」
 格子の向こうの女は佐賀の袖を掴んだままするすると白い手を引っ込めた。紅色の格子に袖だけが引き込まれる。
「玩具になるのは、嫌?」
 ふん、と佐賀は息を吐く。
「くだらん遊びを」
「くだらなくったっていいじゃない」
 ごっこよ、と女は言った。
「つまらなくてつまらなくて、寝ても覚めても退屈で、こんな遊びでもしなくちゃ」
 紅を引いた目が睨む。ここまで言わせて無粋な男だと責める。袖にかかる力が緩む。
「長崎」
 佐賀は格子を掴む。女はふふんと笑った。
「本気になった」
「遊びだ」
「いいわよ。遊んであげる」
 早くいらっしゃいと女が手を伸ばした。
 不意の刹那であった。
 ぬっ、と。感じたのは熱であった。波を溶かし平らな海の水面を灼く容赦のない真夏の陽の熱だった。そして強い酒精が香った。女は目を見開いていた。顔の横を、ぬっと太い腕が伸びる。赤く焼けた腕は太く濃い毛がびっしりと生えていた。佐賀は己のものよりも太く頑丈な手指をその目に見た。長崎の背後から伸びる二本の赤い腕は、乱暴に、そして無造作に女の顔と胸を掴んだ。女の唇が開いて何か言おうとしたが声にさえならなかった。ぐ、と赤い腕は力を込めた。佐賀は格子の間に腕をねじ込む。女は手を伸ばす。しかし指先も触れ合わぬ程、赤い腕は女を背後の闇へ引き摺り込む。そこへ見えるのは群青の凝り凝った闇である。佐賀も、この女も、つまり長崎も見知った闇である。夜の船底。波の音だけを供にした暗い船底の闇だ。
 女が大きく口を開けた。呼ばれる名か、悲鳴か、声は押し込まれた毛むくじゃらの指に遮られる。だが佐賀の耳には届く。
「ながさき!」
 顔を紅格子に押しつけていた。手は空を虚しく掻くばかりだった。女の姿は消えていた。奥から驚いたような目が幾つも自分を見た。しかしそれも束の間だった。空に掠れた音が響いた。気づいた者が顔を上げる。佐賀は海へ向かって走り出す。やがてざわめきと驚愕は港から長崎の町中に津波の如く押し寄せた。船が来たのだ。異国船が。
 船は初めオランダ国旗を掲げていた。やがて湾に入るとその旗を降ろし、真に彼らが掲げるべき旗を揚々と掲げ、見せつけたのであった。赤く染め抜いた中央を貫く十字、重ねて斜め十字。その旗を佐賀は目に焼きつけた。イギリスの船が金砂銀砂と輝く静かな小波を従え浮かんでいる。長崎の入江に、仲秋の月の光を浴びている。

「ぬしゃあ、こンうつけ!」
 重たい拳が頬を抉る。ぐわんと頭が鳴る。だが足を踏み締める。ぐらり、大きく揺れたが倒れない。だが二発目があった。左の拳が顎の下に食い込み息を止めた。力は勢いあまり骨が砕けるかと思われた。踵が浮く。思った時には背中から地に叩きつけられていた。
「くされ金玉が!」
 鹿児島は歯を剥き出しにし喚き立てた。両の拳の骨の突き出た部分には既に血が滲んでいた。あまりの加減のなさであった。福岡は倒れた男を見ている。熊本はさっきまでの嗤いに似た表情を残していたが「お前らも!」と鹿児島の矛先が自分に向いたので顔を引き攣らせた。
「お前らもなんで殴らん!」
 長崎奉行所の前である。イギリス船と分かった船が商館員を二名拉致した。次は己らかと出島は蜂の巣をつついた騒ぎである。その狂騒が長崎の町中に伝播している。カピタン・ズーフは長崎奉行所に避難をしていた。異常である。例のない事態だった。
「あがん船ぁ焼け! うちが燃やしてくれる。焼き討ちじゃ。船ば出せ!」
「鹿児島」
 奉行所の門に寄りかかり中を窺っていた大分がこちらを向いた。
「かぴたんが戦うのはやめてくれと。いんぎりす船にはおらんだ人が乗っている」
「そがんこと知るか」
「かごんま」
 甲冑姿の宮崎が櫃の上に腰掛け頬杖をついていたが、鹿児島を見遣った。
「駄目だよ」
「宮ッ」
「長崎が乗っているよ、あの船」
「なん…」
 なんば言うか、と呟く鹿児島の声から勢いは一気に殺がれた。
「そうだろう、佐賀」
 佐賀は口の中の血を吐き出す。赤い腕を見た。見たのは己。そして攫われた長崎。しかしここにいる誰も、長崎の不在は感じている。今、同じ地を踏んで長崎はいない。で、あれば。
 福岡が港を振り返る。ぎりぎりと弓を引き絞るように歯が噛み締められる。双眸は鉄の火花を思わせ、燃える。が、一言も言葉を発さない。ここへ一番に辿り着いてより、ただ無言である。彼もまた気づいていた。長崎の地を踏んだ時から。だがそれと無言の理由とは一致しない。
「なんでじゃ」
 鹿児島は呆然と呟き、己の呆然とした呟きに焚きつけられ再び怒りを爆発させた。血の滲んだ手が佐賀の襟首を掴み揺すぶった。
「なんでうちらが人間に、人間なんぞに捕まるか。ぬしゃあ何ばした。言え!」
 佐賀は答えなかった。鹿児島は続けて何度も拳を振り下ろした。
「やめんか」
 熊本が呟く。
「何が。死にゃあせん!」
 死んでたまるか。鹿児島は吠える。そうだ死んでたまるかと佐賀は思う。ここで己が死ぬようであれば長崎は二度と還らない。己は死なぬ。ならば長崎も死なぬ。この港を護る限り。
「死なん」
「ああ?」
「俺が取り戻す」
 だが佐賀の身体は動かない。いまだ鹿児島に襟首を掴まれぶら下がっている。
 動かぬか、人間ども。
 百人余ばかりの兵がおろおろと右へ左へ、そして鳴らぬ大砲を目の前にただ立ち尽くしていた。土気色の顔をした長崎奉行が諸藩の応援が着くのはまだかと、さっき使いた飛び出したばかりというのに立ち上がっては座り、顔を上げては項垂れ、しまいに短刀を手に取る。鯉口を切れば冴え冴えとした光は月影のように奉行の胸を刺し貫く。彼はそれを鞘に収め黙って懐に呑む。カピタンは顔は青ざめ、しかし目を真っ赤にして海の方角に懸命に聞き耳を立てていた。丸山から三味の音が消えた。笑い声が失せた。石で口を塞がれたような沈黙が長崎の港を覆っていた。
 波音を佐賀は聞いた。海面を打つ音であった。すぐさま港へ走り出した。それぞれに具足を鳴らし太刀を鳴らし港へ並ぶ。カピタンが出島を出たことで、市中には異人侵入の流言が飛び交っていた。町も人も恐々とし、町の灯、篝火は皎々と道を染め、港に至っては真昼の如く明るい。明々と燃える火に照らされ、佐賀の顔はいよいよ地獄を見た面である。
「船が」
 素直に声を上げたのは熊本だった。三艘の端船が駆けるが如き勢いで近づいてくる。月明かりにはっきりとその姿が分かる。
「番所は!」
 初めて福岡が叫んだ。
「撃たんか!」
 しかし音はない。火の気配もない。三艘の端船は戸町、西泊の両番所の間を矢のように抜け、港を臨む入江へと入った。追いかけるように番所から走り出す番兵の姿があったが、それが果たして何の役に立とうか。
「来るぞ…?」
 熊本は驚愕の眸を佐賀に向け、叫ぶ。
「おい、どやんすっとや! 異国ん船の来よるとぞ!」
 大型の端船である。武装しているのが見て取れた。清かな光の下に鉄の筒は黒々と光り、こちらを狙っている。それぞれの舟に五十名ほど、乗り込み皆武装している。何より鉄砲を構えた腕、オールで漕ぐその腕の屈強なこと。
 がちりと音が鳴る。鹿児島が太刀に手を掛け、姿勢を低く、唸っている。しかし動かぬ。動けぬ。薩摩の兵はまだ到着しない。鹿児島一人が逸ったとて、その腕を振り下ろしたとて、異国人の一人も斬れぬだろう。
「見ておれてや…」
 厚い唇が戦慄き、目元まで痙攣が走った。
「こいば黙って見とれてや!」
 ふざくんな!
 と、既に血塗れの拳が振り下ろされた。佐賀は黙って殴られている。目は両番所の彼方の海に据えられている。船がある。イギリスの国旗を掲げた船がある。赤い腕の男はあの船に乗っている。
 月中天に至り、通詞がイギリス船の手紙を携えて戻った。薪水と食料の要求、応え得ぬ場合は港内の和船を焼き払うという、脅迫であった。皆が一通りその文書を読んだ。佐賀も繰り返し読んだ。二度。三度。五度。何度読んでも女の安否には触れていない。鹿児島は佐賀を殴るのを止め、酒を喰らっている。吐き出す息は鬼のようだ。その鹿児島の鎧を収めた櫃に腰掛け、宮崎は動かない。佐賀、福岡、大分は港の先に立ち尽くし、少し離れて大分が彼らの姿と遠く海までを一つの画に収め眺めていた。
 明けぬとさえ思われた夜が明け、早朝の凪の中を面々は立ち尽くしていた。誰も一睡もしない。疲れではない、眠気ではない、地獄の火に溶かされた血がどろどろと身体中を巡っている。船の姿は昨夜よりいっそうはっきりと見えた。恐れを知らぬか赤く染めたイギリスの旗を掲げ、船は台場のある神崎の側に停泊していた。昨夜港を悠々と回遊した端船の他、艀は会わせて五つにも六つにも増えている。
 大砲、四十八門。
 全長は三十間か。
 おそらく三百か四百も人間が乗っていよう。その誰もが昨夜見たのと同じ腕をしている。太く、力強くオールを漕ぎ、鉄砲を構えた、赤い毛むくじゃらの腕。
 長崎奉行は昨夜の興奮から醒め、しかし焼き討ちすべしと意志は硬い。そこを何とか穏便にと取り縋るのがズーフであった。焼き討ちとなれば船に囚われた仲間のオランダ人も助からない。押し問答は彼らの耳をすり抜けてゆく。その中で佐賀は、己の藩の聞役が願い出るのも聞こえていた。焼き討ちを見合わせてくれ。まだ応援の一人も到着せず、万が一失敗でもすれば奉行の面目も潰れよう…。
 己の責さえ負えぬのか。
 焼けた血がぐつりぐつりと首の後ろで音を立てる。
 薪水を用意しつつ、しかし人質の返還が先だと時間を引き延ばし、陽が傾き始めた頃、小舟が港へ近づいた。彼らは港に駆けつけた。爽やかな秋風が小舟を港へ寄せた。オランダ人が一人、立っている。やつれた様子で胸に書状を握り締めている。蘭文であった。ズーフが出され、その場で通訳した。今夕までに食い物の都合がつかなければ艦自ら港に押し入り日本の船も中国の船も焼き払うとあった。読み終えたズーフが長々と溜息をつき、取り囲むように佇む六人に声はない。。
 署名がある。イギリス海軍フリゲート艦フェートン号艦長、フリートウッド・ペリュー。わずか十九歳の若者であるという。




しゃさんの県擬の二次。