ふれあいやまあるき







 ずん、と腹の奥に感じた。微細な震動であるから立ち歩いていれば気づかぬものかもしれぬ。だが青年の腹にはずんと響いた。
 バス停のベンチはまだ乾いた匂いを放っている。だが空気は既にしっとりと水の粒子を含んで膚にまとわりつく。服をわずかに重くする。ベンチに腰掛けたまま、ちらと背後を振り向けば山の肌は思ったよりも明るい色だ。己の目にはそう映る。まだ草は緑。あれからすっかり命が抜けて清浄な黄金の原になるのはまだしばらく後のこと。どう、であろうか。その季節は来るのであろうか。阿蘇山の刃で抉らせ尖らせたような山頂は見えなかった。吐き出す噴煙をまとっているとも見える。低く垂れる黒雲の腹を引っかけて被っているようでもある。どちらにせよ、今日は草千里まで上ることも叶うまい。晴天なれば規制区域の外からも、あの雄壮な様を見ることはできるのだが。
 ああ写真だ、写真、と熊本はポケットから小さなカメラを取り出した。デジタルカメラなんぞ、と思っていたが新しいものは手に入れたい。手に入れて使ってみればこれが便利だからよく懐に入れている。入れたまま忘れることもよくある。先まで忘れていた。阿蘇の噴煙の写真は、噴火の日から各新聞にも大きく載ったものである。今更、の感もあるが。
 ――あれは気に入らん。
 地元紙が載せた写真の写りの悪さが気に入らず自分で撮りに来た。これが手本だと送りつけてやる訳ではない。見せたい相手がいる。
 草千里。今は雨か霧か、真っ白でひどく寒いだろう。その旅人を見かけた日、空は薄曇りだったが酷い天気ではなかった。寒そうにした旅人がぽつねんと草千里の只中に立って白い煙を薄くたなびかせる火口を見上げていたので、生来の性格が出た。話しかけ、ポケットから出した饅頭やらを押しつけて食べさせ、馬にも乗せた。どこから来たのかと尋ねると、先は北にいたがとのこと。故郷はどこかと訊くと知らぬと言う。ないのであるか、知らぬのか。うすら寂しくなってしまい、熊本はもう一個饅頭を押しつけたのだった。あの旅人に噴煙を上げる阿蘇を見せたいと思ったのである。
 日が悪い。中岳より一段低い根子岳の頭にまで雨の気配がかかり始めた。取り敢えず一枚、と撮る。手前の屋根が映ってしまうのでフレームを動かす。すると阿蘇山は下の方で黒いギザギザになってしまった。
 いい出来ではないと思いつつ、撮った写真を見た。小さな液晶画面に映し出されるのは己の目で見たよりも異様な光景であった。阿蘇の火口目がけて垂れ込めた黒雲が渦を巻く。右から左へと大きく一周し、仕舞いには火口に呑まれている。熊本はいつの間にかベンチに腰掛けて小さな画面に見入っていた。阿呆のように開けた口から、おお、と我知らぬ声が漏れていた。
 また。
 ずん、と。
 腹の奥が震える。びくりとして振り返ったが、次は耳を聾するクラクション。バスが盛大な溜息を吐いて熊本の前に停まる。熊本はカメラを懐に入れてバスへ乗り込む。しばらくすると豆まきのような音が頭上に響いた。雨が降り出していた。前を見るとフロントガラスをワイパーが拭う。側面の窓にも斜線が走る。強い雨である。白く乾いた景色がみるみる押し流され、灰色のアスファルトが顔を出す。車窓も涙の模様を描く。ふんふん、と熊本は頷いた。おっは巫の良かな。こん雨で火山灰も流れっしまうぞ。掃除ん手間の省けたばい。
 アップダウンのある道である。バスが大きく揺れる。懐で小さなカメラが熊本の腹めがけて二度ほどタックルをする。屋敷に戻って写真をプリントアウトするのは簡単だ。折角人に見せるのだ、ちょっとは良い紙を使おう。表面がピカピカ光る紙だ。それはいいとして、どうすればあの旅人に見せられるのか。津々浦々、どこへも行くと言う。また来るやという問いには、また、という応えだった。いつだろうか。折角写真を印刷したらすぐにも見せたい。まるで人のように急くと福岡は馬鹿にするが、福岡とてこちらをどうこう言えたタチではあるまいに。
「名前、か……」
 熊本はもう一度カメラを取り出して濡れる車窓に向けてシャッターを切った。フラッシュは光らない。窓の中にはカメラを構えた自分の姿が映り込んでいる。名前はないものだと思っていた。旅人である。会いたかなあ、と胸の中で言葉にする。また饅頭食うばかりの時間会ってみたい。それでこの写真を見せたら旅人はどんな感想を漏らすだろうか。聞きたい。
 急に飢えた。腹が減った。鳴った。通路を挟んで眠っていると思った老婆が急にこちらを見て、ポケットから出したクッキーをくれた。カントリーマアムを一口で平らげ、熊本は席を移る。老婆と話をする。雨は強く弱くバスの屋根を叩き続ける。
 結局、止まぬ。今夜一晩降るだろう。老婆が両手にスーパーの袋を下げて傘まで差そうとするので、熊本はその傘を取り上げた。老婆はムッとして熊本を見上げる。
「おっが持とうか」
「年寄扱いすんなあ」
 それでも熊本はスーパーの袋を一つ持つ。老婆に傘を持たせたら頭がつっかえてしまうから、傘も持つ。肩を寄せ合って細い坂道を上る。相合傘をしては妬かれるかもしれないと思ったが、老婆の宅に火の気配はなかった。傘の滴を払う間に背後で明かりがついて、人心地ついた。タイミングよく腹が鳴った。食うていくとだろ、と老婆は熊本を家に上げた。
 スーパーの袋から出てきた惣菜は揚げだし豆腐で、老婆はそれだけ食べるつもりだったのだろうか。熊本がテレビを見る間に鍋で米を炊いた。魚肉ソーセージを焼き、目玉焼きまでつけてくれた。悪かなあ、と熊本は胡坐をかいたまま身体を揺らす。
「冷や飯と漬物でよかて」
「若かうちは食べんね」
 娘が写っているらしい古い写真はある。孫のいるような気配がない。たとえば襖の低いところに残る落書きや、折り紙で作った敬老の日のメッセージや、盆正月に残されたガラクタが。熊本はよけいぐらぐらと身体を揺らす。雨のお蔭で宵闇が濃い。テレビの明るさが寂しい。まだ六時にもなっていないのに。
 しかし米の炊きあがったほかほかとした匂いに心が浮いた。新米だと分かる。
「ばあちゃんは田圃ば持っとっと?」
「甥がせしこて食え食えて持ってくるとだん。うちはもうばあちゃんだっけん食われんて言いよるて」
「よかたい。ばあちゃんも食わんば」
 テレビの向こうの笑い声が座敷に馴染む。雨音がわずかに遠ざかる。熊本は魚肉ソーセージをもぐもぐとやりながら箸でテレビを指した。
「ばあちゃん、もりひろぞ」
「なんね」
「もりひろが東京で春画展ばしよってたい」
 県関連のニュースである。画面にはすっかり齢を取ったが以前は県知事として、それどころか総理大臣としても連日顔を見た男が展示会場のパネルの横に立ち笑顔を浮かべている。熊本この男を知っている。男の祖先もよく知っている。城の、あのきらびやかな昭君の間で対峙した顔たちに実に似ていると思う。
 老婆は梅干しのように顔中の皺を寄せる。
「もりひろじゃなかろもん。永青文庫だろもん」
「知っとっとや」
「馬鹿んすんなあ、はなくそたれが」
 悪かったて、ととりなして熊本は立ち上がる。台所で湯を沸かす。ポットはしんとしている。蓋を開けると今朝の湯がぬるまって底に溜まっている。流しにあけ、薬缶が鳴るのを待った。
「ばあちゃん、しろは好きや」
 米焼酎の瓶を懐から出す。老婆はもりひろの顔を眺めている。湯で割ったのを出した。薄いと言われたので少し足した。コップの縁までひたひたと満ちる。
「うちにもあるとぞ」
 コップの縁を啜り、老婆が言う。
 テレビの画面に既にもりひろはいない。週末の天気に話題が移っている。雨が止めば夏の戻って来たような晴れ。それからまた崩れて、雨、雨。しかし熊本はぴんと来る。身を乗り出して、迫る。
「見せて」
「いやらしか」
「よかたい、見せてよばあちゃん」
「いやらしか子ばい、こん子は」
 老婆はにやにや笑って背後の水屋の戸を開く。背の低い水屋だが、飴色の肌はベニヤを張ったものではない。中の食器も手前の湯呑しか使っている気配しかないものの、よいものであろうと思う。嫁入り道具だったのかもと熊本は考えた。
 引き戸の奥には引き出物でよく見るような大皿が重ねられている。一人暮らしでは使いようのない皿だ。その上の段はやや狭いが漆塗りの盆が重ねられていて、老婆はそれを引き出した。油紙に包まれてそれはある。熊本は両手を擦り合わせる。老婆は慣れた丁寧な手つきで油紙を開き、中の春画を一枚一枚取り出す。熊本もそれを受け取りまじまじと見つめるが、ふと頭の中が白くなった。まじまじと見つめるのが些かつらい。顔を上げて老婆を見る。
「何これ」
「春画たい」
「女の描いてなか」
「うちは男同士ん好きだん」
 熊本は俯き、悩み、もう一度顔を上げた。
「…………ばあちゃん、水ばちょうだい」
 老婆は笑う。笑って熊本のコップに焼酎を注ぐ。
 どこの部落の者かと問われ、市内から来たと答えると老婆はすっかり熊本が泊まってゆくものと決めたらしく、風呂や床を準備しようとする。それが焼酎にやられた足のふらつくの、危なっかしいから熊本は自分で風呂を溜め、床を敷いた。
「いやらしかね」
「襲わんて」
 度胸のなか、と老婆は酔った顔を更に赤くする。怒っているようである。
 九時前には床に入った。いつもよりずっと早い。だが日が暮れれば寝る。それが当たり前だった気もする。灯りが増え、夜遊びを覚えた。今は子供の時分、樹々に囲まれて眠ったような心地だった。雨音は屋根に染み、静謐となって座敷を満たす。
「ばあちゃん、寂しゅうなかや」
「なんの」
 今更どやんしようもなか、と老婆は呟いた。
「しょうがなかったい。うちがこん家で生きとる限り、しょうがなかたい」
 手ば握って眠ろうや、と熊本は言った。布団から右手を出すと老婆の乾いた手と触れた。冷たい。肉も骨も冷たい。血の流れは窓を伝う雨の温度だ。
 また遊びに来てやるけんと言った。忙しかろて、せしこて来んちゃよか、と老婆が言った。
 翌朝、バスに乗って山をくだった。寒かったのが、日の昇ると急に解ける。今日は夏の陽気であったか。屋敷に戻って写真をプリントアウトし懐に入れる。いつ会えるとも知れぬなら今日会えるのかもしれないのだし。街へすっ飛んで行こうとしたところを立ち止まって、それから、と水屋を探れば徳用の袋に入ったクッキーがある。熊本はカントリーマアムを二つ、三つと懐に放り込んで走り出す。




しゃさんの県擬の二次。