岩手さんのコート







 引き戸に手をかけると暖色の光と人の熱、それから懐かしくも腹の減る匂いがわっと音を立てて顔から胸から包み込み、ぬくもりは指先までじんわりと染みた。凍えの解けた耳に流れ込む耳慣れた訛り、器の触れ合う音。男はほんのり笑みを作ってその中へ首を突っ込む。
「空いてるかな」
「お客さん!」
 奥から顔を出したのは女中…ではなく今は何と呼ぶのだろうか。頬がぽっと赤くなってくしゃみが出た。
「空いてますよう。奥の席だけどいい?」
「構わないよ。元気そうだねキミちゃん」
「お客さん久しぶりよねえ」
 女中は男を席へ案内しながら山高帽子を受け取り、気づく。
「寒そうな恰好しちゃって」
「一年ぶりだ」
 ちぐはぐな会話に笑いながら男は小さなテーブルの小さな椅子に座る。円座の藁の擦れ具合も懐かしい。
「コートは新幹線の中で取られた」
「あらやだ。物騒」
「取り違えたんだろうけど相手のコートも見つからなくて」
「じゃあやっぱり盗られたんじゃあないの」
 それに、と女中は帽子を釘にかける。
「他のコートが残ってたら着てたの、お客さん」
「寒くなったからね」
「そりゃあね、寒うございますわ。まず一本つけましょうか」
「お願いね」
 男は舌先を火傷するような燗で骨の芯までぬくもり、ほろ酔いになった頃店を出た。
「いや。初雪よ」
 表まで見送りに出た女中が濃い群青を裂く街灯明かりに舞う影にぶるりと震える。
「風邪引きやしませんか」
「そうしたら、ぼくが去年忘れていったコートがなかったかしら」
「あったかしら」
 女中は振り返り、カウンターから店主が指さすのを見る。
「あったわ。あるけど、あれ、みんな勝手に着ちゃったわよ」
「いいよ。ぼくが着て行ったら誰か凍える?」
「大丈夫大丈夫、最近は猫も杓子もウルトラダウンって。お店、ユニクロしかないんじゃないかしらって勢い」
 男は去年のコートを羽織り、女が頭に載せてくれた帽子を深く被る。街灯に照らされた道、枯れ枝は白々と、後は全て夜の深い闇に溶けている。が、そこにも雪が降っている。振り返ると店の明かりに照らされた雪は赤く映え、照る山の色。葉が落ちる前に行かねばならないと思い出した。
 しばらく仕事がてらに山を見回って小学校に立ち寄って、また盛岡まで下りた折、先の店に寄ると女中が教えた。コートを見つけたのだそうだ。
「きっとお客さんのコート」
「分かったの、キミちゃん」
「お客さんっぽいなあって思ったのよ。ちょっと似てたわね」
 詩人だそうだ。会があり、初め十人ばかりでどかどかと店にやってきた。次の店に行くと声を張り上げて店の外に出、
「そのまま橋まで走ってっちゃった。吃驚したわあ。誰も止める暇なんてなかったもんねえ」
「それで」
「どぼーんって」
「どぼーんと」
「ねえ、あんたも聞いたよねえ」
 年の離れた亭主はカウンターの中で頷く。
「今、医師会病院に入院してるってよ。行く?」
「よす」
「よすの」
「二着もいらないから」
 ぬる燗で、入院中の詩人について考える。表にはもう雪は靴の埋もれるほど積もっている。客足が遠いからと女中は向かいの席に座って酌をした。
 若い時分からこの店で働いている。男がこの店を贔屓にして、もう何年か。初めは長い髪を一つにくくっていた。それがある時から結い上げられて三角巾の中に消えたと思ったら、ばっさり切った。子供を産んだのだ。でも若いな、と男は思う。にこにこしているのが目元に皺を寄せるが、しかし若い。話す声は娘の時分と変わらない。
「そうそう、詩人さんもおんなじ帽子かぶってた」
「へえ、時代遅れな」
「だから初めお客さんが来たんだと思ってね。でもそれより小柄で細くって、それなのに酒癖悪くって」
「困った?」
「困った困った。どう追い出そうかしらと悩んでたら自分で飛び出してってドボンだもん」
「参った?」
「お仲間さんがね、慣れてて助かったわ」
「じゃあ日本中の川に落っこちてるんだ」
「あら、地元の人じゃないとお気づき?」
「県民の顔はだいたい知ってるんだ」
 女中はころころ笑い酌をした。
「中原中也みたいな人だね」
「雨にも負けず?」
「こらこら」
「あら失敬。賢治先生に怒られちゃう。ちょっと待ってね、すぐ思い出すから……」
 女中は僅かに仰向いて目を細め、汚れちまった悲しみに…、と呟いた。
「ね? 汚れちまった悲しみに今日も小雪の降りかかる」
「よくできました」
「学校で習ったことなんか忘れちゃうもんねえ」
「でも今度はキミちゃんの子供が学校で習うでしょう」
「再来年ね。従兄の見てからもうランドセル欲しがって…」
 急に言葉を途切れさせ、女中は向かい合った男の顔をまじまじと見た。
「わたし、もうお母さんなのよねえ」
「そうね。不思議」
「不思議なのはこっちよ。お客さんちっとも変わんない。十年前からちっとも」
「若く見えるでしょう」
「昔から老けてたのかもね」
 女中はまたころころと笑ったが目元がやや寂しげに見えた。男は笑い皺の寄った目元に触れた。
「…お客さんの手、冷たい」
「うん。冬だから」
 表の雪が強くなったようである。テレビの中を白い影が降りしきる。
 寒い寒いと言いながら女中は表まで出て見送った。
「お客さん、またおいでね」
 そう声を掛けられたのは初めてだった。風はないが雪は重い。寒く寂しい冬が来る。白い影の遮る向こう、医師会病院の明かりがぽつぽつと灯っている。




しゃさんの県擬の二次。