ぼくはとっても疲れてその上眠いんだ







 真昼の日だまりの作ったぬくもりが、手掴みで砂の城を崩すように奪われてゆく。ぞり、ぞり、と音を立てながら抉られたところへ冷たい夕闇がひたひたと満たす。冬に踏み込んだ。働きたくないなと思った。動くのも億劫であった。裏山の蜜柑が気にならぬではなかった。岬に向けてたわわになる実を気にせぬではなかった。ただ、動きたくはない。日だまりの下に寝ていたい。それが許されぬことは、ないのだ。ヒトではない。あくせく働かぬとも、手を伸ばせば蜜柑は食える。己にはそれだけでよい。腹が減る。蜜柑を食おう。それでよいではないか。ヒトの働きなど、足下に群れて這う虫のようで、煩わしい…、と大分は思ったのだった。地獄の釜の蓋を開けてやろうか。白煙もうもうと、湯気しゅうしゅうと、その気を起こして煮え湯を溢れさせ虫どもを一掃したら気持ち良いのではなかろうか。あら…、と腕を枕に顔を傾ける。馬鹿なことを言ったものだ、ぼくも。
 座敷に落ちるのは影ばかり。夕闇は今や屋根の下を浸しきっている。庭に差す西日は山の向こうへ落ちるもので、明日になってまた海を輝かせて昇るのを見れば少しは気も晴れようかと思うものの、億劫、億劫、動かぬ身体で伏していると果たして夜が明けるものかも怪しくなる。畳の上に伏せって、目を瞑り、明けるとも知れない夕闇の中でただ眠っていられたら。
「らしくないじゃない」
 背中から声がした。伏せった背中の上にのしかかり、落ちる声だった。
「疲れているんだよ」
「知ってるよ」
 宮崎が、くくく、と笑って跨がった腰を揺らす。
「結局負けちゃったんだってねえ。小倉くんだりまで出掛けてね、つわもの人形並べてね、誰も動かなかったって言うじゃない」
「誰もじゃないさ」
「熊でしょう。熊はばかだからお江戸が頼めば断らないよ。ばかなんだもの」
「でも勝ったぜ」
「そんで、その後逃げたのね」
 小倉、赤坂口にて幕府軍と長州がぶつかったのは夏の盛りのことである。攻め入る長州、小倉を獲るつもりであった。小倉藩を主力とし集められた幕府の兵であったが、己が国を守る小倉の他、動いたのは援軍の内熊本の一藩だけである。あとは後方の敷いた陣より動かなかった。山よりその様子を見下ろしていた。大分もそうであった。中津の兵をと福岡に懇願され、出した。出したが、彼らは一歩も動かなかった。当然である。勝ち目がない。また兵を出すと約束はしたが血を流してまで護る義理がない。
「熊の馬鹿正直。でも、結局逃げちゃうんだもの」
「だけど、あの長州相手に勝ち戦だ」
「褒めてるの」
「分からん」
「後悔してるの」
 そりゃあ、と呟いてすぐさま出るはずだと思えた返事は喉の奥に引っ込んだ。峠を見捨てて南下する男の袖を掴む福岡を見た。激昂する様を見た。小倉城に火を放つ顔を見、再び鉢巻きを締めて抜刀する後ろ姿を見た。
「加勢したところで…」
 宮崎の指が背中をなぞる。熱い指だ。火箸のようだ。
「疲れてるんだ」
「さっき言ったろう」
「かわいそう」
 誰がであろう。自分に向けられた言葉とは思わなかった。血を流しても小倉の峠を護った熊本。加勢を得て、見放され、自らに火を纏った福岡。勝ち目のない戦いに男どもを放り込む江戸の女。死んだ者ども。それを黙って見ていた者ども。峠の土は赤い。故に赤坂口と言う。それに背を向け中津に戻った。瀬戸内の温かな海が恋しいと心底思った。
「疲れているので、ほら、その…」
「なあに」
「あれよ、蜜柑を取ってはくれぬかしら」
「食べたいの」
「裏山になっている。もう喉がからからだよ」
「口を開けてごらん」
 宮崎が言った。大分は口を開け、目を瞑った。流れ込んだのは白湯のような。熱い何かが流れ込み、腹の中で冷える。冷えて、ずんと重くなる。
「何を飲ませたんだい」
「何だっていいじゃない。ねえ、福岡くんは、お豊ってお願いしたの」
「…教えないよ」
 そうじゃなくちゃ張り合いがないね、と柔らかな両手が背中を掴んだ。思わず畳に爪を立て、しかし大分はゆっくりと力を抜いた。逆らうまい。抗うまい。夜の明けるとも知れぬ黄昏の、深みで縋ろうものなどあるはずがない。
 どこまで落ちてゆくのだろうと大分は考えた。目蓋の裏には淡い光点があった。それは凝視すると消える。もとよりない幻を見ているのかも知れぬ。それとも儚い光の生まれて落ちる淡い軌跡を見ているのか。ヒトなどわらわら生まれて好き勝手、と青ざめた顔で言ったのは福岡であった。地獄の釜の蓋をそっと取り除く。もくもくと湧き上がる白い湯気に全ては呑み込まれる。あれっ、夕闇を沈んでいたはずなのに。
 目蓋を開く。隣家から親が子の世話を焼く声が届く。大分は俯せたまま両手を開いて、閉じた。畳がざりざりと乾いた音を立てた。朝陽は縁から己の足下までを照らしていた。声を上げ、よいしょ、立ち上がる。縁側に蜜柑が積まれている。その一番上を取り上げて、皮ごと齧り付いた。朝からひどく喉が渇いている。




しゃさんの県擬の二次。