あなたは私の名を呼んで

それから元気になってね







 更地に佇めば今でも炭の匂いがする。炎の匂いが。火の粉となり、灰となってまう本丸の匂いがする。それから水音だ。激しく波立つ音だ。書物を片っ端から堀に投げ落としたのだ。灰燼に帰すくらいならばと、その背を焼きながら何本の腕が懸命にそれを窓から投げただろう。狂騒、しかしその狂える熱量は一つの形を成していた。一つの意志が熱の奔流を一つところへ導き、腕が働き足が駆け。町まで類焼させた大火事の、その跡に仁王立ちとなる一人の男の背中まで収束したのだ。
 佐賀はこの頃、吉茂のことをよく思い出す。宗茂の手腕が心許ないと言うのではない。先代当代を較べる巷の評判は存じておる。頷くところもある。ただ、思い出すのであった。焼け落ちた本丸跡に佇み炭の匂いに鼻をくすぐられると、あの火事の夜の狂奔さえ懐かしい熱であると。
 旱魃に続き、虫が出た。病を降らせる虫であった。彼の平野に、豊かに栄えることこそ誉れであるこの広々とした田畑に実りは一粒とてなく、割れた灰色の地面が剥き出しになっている。その上を空っ風が吹いた。風は冷たく、しかし照る日はいやに明るく、夏の無慈悲さの名残がいつまでも漂う。明るく冷たい風である。乾いた寒い風である。それは城にも吹き込む。背中を焼く火の幻が消えた。
 享保十七年。歴史書にも記される大飢饉である。来年は、と思うが予感がある。これでは終わらぬかもしれぬという底冷えした不安がある。地に根ざす魂であるからこそ先を知り、また抗うことができない。天も地も彼を産んだ父母よりなお高貴なる神々のものであった。
 鯱の門をくぐった。宗茂の顔は見なかった。あれは時々、目を病む。伏せる。己が顔を見せればすわ死神かと恐れるだろう。会わなかった。
 海を左手に陸路を行く。道々の田、枯れている。底から涸れている。だが、死なぬ。己は死なぬ。今年が枯れ、来年に底冷えのする不安が的中しても、それは永遠ではない。いつか慈雨が降ろう。すれば豊かな平野が蘇るだろう。栄えある地はその名を捨てぬ。しかし。
 今年、来年と何人の人間が死ぬかは分からない。働き、実りを得、それでも尚苦しい。戦はとうの昔に終わったというのに窮乏の日々が果てぬ。幕府、と江戸の女の顔を思い浮かべる。あれが全て考えたことではあるまいが、参勤に、普請にと力をだろう。栄えある地はその名を捨てぬ。しかし。
 今年、来年と何人の人間が死ぬかは分からない。働き、実りを得、それでも尚苦しい。戦はとうの昔に終わったというのに窮乏の日々が果てぬ。幕府、と江戸の女の顔を思い浮かべる。あれが全て考えたことではあるまいが、参勤に、普請にと力を蓄える前に奪われる。己がじゃじゃ馬でありながら、その足で他の者どもを押さえつけておこうというのである。否、普請は免れているのであった。佐賀に課せられたのは。
 務め。宿命であるとも思う。義務として課せられたものであろうが、その台命を誇りと熊本が羨ましがろうが、誰に渡せるものでもない。佐賀は己が魂の務めを己が手に取り戻したばかりである。
 陸路をあらためあらため来た。長崎も少ない畑が枯れていた。しかし港は風穏やかで、暖かくさえあった。夏は異国の船が来る。異国の品、異国人の好む品、品が金が飛び交い潤う町である。が、それ以上に緑鮮やか、秋の花に彩られ化粧する入江である。この港を護るのが佐賀の使命である。
 異国船が帰り、港に並ぶのは和船、唐船ばかり。祭の時期も過ぎて、ようやく冬支度を思い出した気配である。見れば秋の花ももう小さく、吹かれる様が寂しい。それを一輪摘んで、女の屋敷の門をくぐった。空であることはすぐに知れた。奉行所へと回ったが静かである。まさか、と出島へ足を向けた。
 海に張り出した扇の島は並の人間では渡ることができない。彼らとて些かに躊躇する。福岡も我が家を踏むようにはいくまい。この橋を鼻歌まじりで渡れるのはあの女だけである。
と考えておれば、はっと海風に乗ったそれに気づく。女の歌声は柱を緑に塗ったオランダ商館の上であった。佐賀はぐっと息を詰め、階段を上った。
 障子紙の代わりに硝子を嵌め込んだ戸の向こう、海に張り出したテラスに女は佇んでいる。やけに明るい昼の光を浴びて、着物の刺繍が光る。鮮やかだ。美しい。この女が美しい。ならば畑が枯れようとて長崎の地は栄えの地としてある。
 硝子戸を開ける。女が振り向いた。テラスの白く塗った柵にもたれかかり、佐賀に向かって微笑した。
「随分、早く帰って来たのね」
「来るだろう」
「もっと田が心配なのだと思ったわ」
「だが君を護るのが俺の役目だ。今年は俺の役目なのだ」
 女は口元を手で隠しくすくすと笑った。背後で唐船の鮮やかな帆が笑いにそぞめいて揺れた。
「痩せ我慢しちゃって」
 ぐいと近づくと、女が笑いを隠していた掌を返して佐賀の胸に当てた。軽く押される。それ以上近づけない。
「痩せているわ」
「飯を食えばなおる」
 佐賀、と女は男の手を取り、テラスの端まで歩いた。海へ向けて身を乗り出す。
「あちらを見て」
 女は西を指した。
「それから、ね、両手を胸の前でこうするの。組むのよ」
「長崎」
「目を瞑ってお祈りなさい。あなたはもう忘れたでしょうから、私が唱えてあげる」
「長崎、よさないか」
「あら、何が怖いの。ここは出島よ。ここは私の港で、私の法で動くのよ」
 なんにも恐いことなどありはしないわ、と女は佐賀の隣に並んだ。
「さあ、手を組んで。お祈りを」
 白い手が伸びて日焼けたガサガサの両手を組ませる。指の一本一本を確かに組ませ、女は手を離す。
「あちらへ向かって、しっかりとお祈りなさいね」
 入江の向こう冬の海は午後の陽を受けて白い。女がすっと息を吸った。
「らおだてどーみのおーねーぜんて……」
 明るい陽の下、赤い唇が奇妙な音を紡ぐ。それはとうに禁じられた異国の祈りであり、歌であったはずだ。しかし一本調子の単調な呪文は、かつて佐賀も唱えたことのあるそれともまるで違う。誦経のような。産まれる前の言葉であったような。触れ合った女の方から温もりがじんわりと伝わり、佐賀の喉の奥にも奇妙な歌が渦巻く。
「しくでらえんぺらせんぺらいぇぬき…」
 耳慣れぬ異国の誦経が喉から飛び出すようで佐賀は強く奥歯を噛み締めた。女は歌う。
「せーくろせくろあんめーずす」
 吐ききった息を吸い込み、女が振り向く。そしてちょっと驚いて両手で男の両肩を支える。
「どうしたの、震えているわ」
「…何でもない」
 女が身体を支え、硝子戸の内に入った。佐賀は薄く目蓋を開いた。額から血の気が失せている。振り返るとあんなに晴れていた空に雲が張り出している。陽はその隙間から梯子のように海面に射す。
 身体を横たえられた先はオランダ人が使うはずの寝台の上だった。佐賀は起き上がろうとしたが、女がそれを押さえつけるように抱きかかえて寝転んだ。二人横になるには寝台は狭い。女は身体を密着させた。佐賀は彼女を落とすまいと足で彼女を引き寄せた。
「砂糖を持って来させるわ」
「やめろ」
「好きでしょう?」
「こんな様…」
「見られないわ。誰も見やしないわ」
 鮮やかな着物の袖が頭を包み込み、濃い藍の影が目の上を包み込んだ。影の中に女の匂いが満ちた。白粉の匂いと、かすかに乳の匂いがした。
「あなたはお砂糖を舐めればすぐに元気になるわ。ね?」
 男は頷く。頷いて女の胸に顔を埋める。
「私がお祈りしたのだもの。元気になるわ」
 きっとよ? ね? 女が何度も尋ねるので、佐賀は女の胸の中で何度も頷いた。
 冬を、冷たい波音を聞いて過ごした。春になったが、苗さえ育たない。翌年に流行ったのは疫病であった。人がばたばたと死んだ。八万。そう記録に残している。佐賀は懐紙の上に残った砂糖を舐め、唾で舌を湿す。
 この足で土を踏め。腕を働かせろ。鍬を握り、田に出る。一撃、ふるった。灰色の乾いた土が跳ねる。佐賀は己の身体の奥まで震わせた鍬を強く握り締める。この乾いた土の下に、沃野は眠っている。佐賀は黙って鍬をふるい続ける。




しゃさんの県擬の二次。