江戸と会津と上野の桜







 女の膚が柔そうに見えた。男はしゃがみこんでしばらくじっと眺めていた。寝て一畳あればよいと言った、かつて住んだ長屋は焼けてしまったようである。東京の町は日々変わる。先に来た時とはすっかり様変わりしている。今浦島の心地である。
 寝る場所をなくしたか、しかし町のどこも女の庭であれば、あの城にさえ堂々とふんぞり返っていていいものを女は決してそうしなかった。
「慣れた枕じゃなきゃあ寝られねぇよ」
「………そうか」
「そうさ」
 女が片方の目蓋を開き、眩しそうに見上げた。起きているとは思わなかったから男はばつが悪く、黙り込んだ。
 艀の先に繋がれた小舟の、ゆらゆら揺れるのに女は寝ていたのだった。男は久しぶりに出てきたこの町で、右も左も様変わりしているのに大変惑っていたのに一目で女を見つけたことに驚いていた。近づくと女の膚の柔そうなのに更に驚いた。みとれてしまった自分に絶句をした。女は天に向かって腕を伸ばし気持ちよさげに欠伸をする。
「昼寝にゃいい季節だ。今年は春が長くッていいな」
 おめぇんところはどうだいと涙の滲んだ目元を拭い、口元に親しげな笑み。
「やっと」
 男は艀の先まで進み、女からは目を逸らした。
「やっと花が咲いた」
 隅田川の川面にもちらちらと見られる桜の花弁は、北では今ようやく開き始めたばかりなのだ。
「来な」
 女が手を差し出す。
「いいや…」
「来たばっかりだろう。もう帰っちまうのか。少しは遊んでいけ」
 遊ぶ心地には…なれぬ。自分ばかり舟に花に女では、この地で血を流し斃れた男たちに顔を向けることができない。この東京と呼ばれる町は日々目まぐるしく変わるものの。
 匂いが。
 男は川面に反射する陽光に目を細める。しかし目蓋は閉じない。閉じれば血腥いあの日の光景に引き摺り込まれそうで。
「おれんところの桜はよぅ」
 女も春の陽光に目を細め手を翳した。
「自慢なんだよ。見て行けよ」
 女の膚を柔いと見たのは、その唇が赤いせいだった。いつから紅をつけるようになったのか。しかしなりは船頭か魚屋かと、否、男と見まがう様子、以前と変わらない。ならば口元の紅は後朝につけられたものかもしれぬ。廓でも、女はもてるのだそうだ。
「で?」
「なんだ」
「いつまでいる」
「もう……」
「呑んで行かねぇかい」
「…東京」
 女の名を呼ぶと、櫂を操る手を休め女は振り返った。眩しそうにする目、よく焼けた肌。
「おめぇが呼ぶと、おれもごつごつしたような心地になるなぁ」
 悪くねぇよ、と女は言う。
「ちょうどいい。おれぁそういう気分になりたかったんだ」
 なぁ福島よ、と女が男を呼んだ。
「上野の桜、見ていかねぇか。おれは待ってたんだ。お前と見なきゃあ春も終わらせられねえって、おれぁずっと待ってたんだよ」
「待つとは、あんたらしくない」
「そうかい」
「何でも置き去りにするもんかと」
「じめじめしたのはこれっきりさ」
 再び櫂が軋む。舟は意志を持ち、桜の咲く岸辺を目指す。
「ここらで一つ終わらせようや。花見酒も今日で最後だぜ」
 杯を交わす。東京はもう日暮れもぬくい。初夏の来る前、梅雨の来る前にこの魂たちは故郷へ連れて帰ってやろう。
 上野戦争と今では呼ぶ。たった一日の戦である。上野寛永寺に屯集した若者たちの、江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜を君とする若い武士たちの末期の一日。
 その日は雨だった。不忍池に波を立て、江戸の空を震わす爆音に皆首をすくめた。
 日没かと思われる頃、その音も止んだ。だが誰も沈黙し項垂れていた。雨が打つのだ。沈黙のまま暗くなった。夜になった。深い。軒下から首だけ出していた、そのうなじを冷たい雫が打つ。女は煙管を吸いつけ、のろりと煙を吐いた。
 じゅくじゅくと音がする。水溜まりと泥濘に濡れた草履の音だ。角を曲がってじゅくじゅくと足音が近づく。それまで行儀悪く敷居の上にしゃがみ込んでいた女だが、よっこらと腰を上げ片頬に笑みを浮かべた。
 雨の中、笠から覗く男の目は陰鬱だった。
「やっと来たな」
 入れよ、と戸を大きく開き女はたった一間の中に入る。雨の闇を背に男は蓑を脱ぎ、身体を震わせた。ごつごつとした身体が頭から爪先まで濡れていた。寒さの震えを男は噛み締めることで耐えようとしていた。
「早く来ねえか」
 女の片頬から笑みが消える。
「風邪ひいちまうよ」
 暦は五月。しかし既に夏の盛りであった。降る雨は蓮の葉に溜まり喉を潤す天水であろうが本来の季節である。しかし男は凍えを堪えていた。男が気を紛らすように狭い一間をじろじろと見回すので、思わず口を開いた。
「ナニ、広い屋敷なんざいらねぇのさ。仕事もあるからよ。日が落ちりゃあ酒くらって寝るだけだもの」
 言葉どおり薄い蒲団が隅に畳まれている。綿まではみ出している。男はまだ土間に佇んでいた。女は黙って茶碗に酒を注いだ。十全なのを向かいに押しやり、縁の欠けたのを己の唇に押し当てる。
 男はのっそりと女の向かいに腰を下ろした。動作の一つ一つが重く、泥のような疲労が滲んでいた。女はわずかに顎を持ち上げる。鼻がひくひくと動いた。五月の匂いではなかった。火事と煙と。
「血と」
 泥と。
「鉄くせぇ」
「……あれが」
 男の唇がようやく開き、肺腑の奥から無理矢理に押し出すような息と声が漏れた。
「アームストロング砲、というのか」
 昼過ぎから空を震わせた轟音の正体であった。弾が落ちれば無残。破裂した鉄の破片が辺りのものを悉く引き裂く。地も、人も、何もかもである。
 死んだ。随分死んだ。男と故郷を共にする人間ども、何人死んだろう。確かな数は知れない。生き延びた者ども、散り散りとなり、今は上野の火も消えた。雨のお蔭だ。しかし血はまだ洗われていない。男の背からも、女の背からも。
 男は茶碗を掴んだ。しかし俯き沈黙した。女はかすかに濁った酒の面を見つめた。
 雨が漏る。
 波紋が広がる。
「もう、帰ぇんな」
 女は息を吐き出した。
「おめえの故郷に帰ぇんなよ」
「……ああ」
 女は欠けた口に唇を押し当てた。血が一筋流れ込んだ。男に押しやると、男は黙ってそれを呑んだ。
 会津。会津で。その囁きが町のそこここで囁かれる。散り散りに別れる若い武士たちが、それを追う官兵が、男の名を口にする。
「おれが送ってやるよ」
 女の言葉に、ごつごつした男はごつごつした仕草で首を横に振った。
「じゃあ、仕方ねえ…」
 女は呟いた。
 それが別れであった。
 料亭からも桜が見える。東京の町、春の盛りである。
 思い出を、男は語ろうとしなかった。黙って杯を重ねた。
 女は杯を交わしながら一度、口を滑らせたのだろう、男を会津と呼んだ。しまったと女は言ったが、男は奥歯で笑みを噛んだ。懐かしき。誇らしき。東京という名の女も苦笑して、誤魔化すように杯を触れ合わせた。




しゃさんの県擬の二次。