天保、八月はいよいよ晴れなり







 撥は夕陽を吸う鼈甲。ははあ、あれは高いぞと見てにやりと笑ったのを何と解したか、熊本は唸る声をいよいよ張り上げる。柳のように細い琵琶で語るのは源平だったか安倍晴明だったか、最初に口上を言ったと思うが歌が下手なのでどうとも聞こえない。ただ本人、気持ち良く歌っているらしいので福岡のにやり笑いは気に障ったのだろう。
 床に横臥して福岡はそれを聞くともなしに聞く。突然押しかけて琵琶を聞けと言う、病人に対してのあまりの図々しさを目にした時は愛蔵の刀でへし斬ってやろうかとも思ったが身体が動かず、結局好きなようにさせてしまった。
 寝ている場合ではない、と思われる。
 だが何ができる。乾いた土の上に鍬をふるうだけの力もない。今年は天水の恵みなく、しかも稲に花の実った矢先大風に見舞われた。湾より外海を眺むる長崎警備の船の上、がくりときた。臓腑を抜かれたような恐ろしい心地がした。長崎にいる間は決して見せたくない姿であるが、それでも長崎は気づいていたであろうし、故の仲秋を前にした帰国である。城に戻るとばったりと倒れた。不甲斐ない。内々のこととは言え佐賀にも知れているだろう。それが口惜しい。口惜しいと思って寝込む内、胸の痛みが酷くなった。そこへ熊本が来た。
 熊本の見舞いは、意外であった。
「暇だろうけんない」
 暇潰しをさせてやろうと言うのだ。聞けと言うのだ。きっと誰ぞより習ったのを見せたいだけであろう。そこへ自分が帰ってきたばかりである。しかも動かぬ。下手だからと逃げ出しもできぬ。恰好の相手である。 
 音色は単調である。唸る声も単調である。同じ節の繰り返しは門付けで聞けば下手糞の一言もくれてやったろうが、ただただ耳より流し込まれると波のように存外心地よく身体を揺らす。それにふと見た撥の高かろうという物の値に考えが逸れたのでだいぶ胸の痛みを忘れた。
 琵琶は新しい。拵えさせたのだ。真新しいのが分かる。しかし撥は古い。あんなものを持っていたのか。銀杏のように開いた先がゆらゆらと夕焼けの尾を引く。透明な織物が琵琶から溢れ出す。うとうとしていた。気づけば歌は終わっていた。
 熊本が自分の隣に寝転んでいる。
「客の分際でなんちう格好ばしよる」
「わっの寝たつが悪か」
 しゃん疲れたつかい、と熊本は頬杖をつく。
「きつかろ。もう休めばよかろが。長崎御番、おっに替われ」
 あまりに自信に満ちた声で吐くので、ただ静かににっこりと微笑してやった。熊本はしゅんとし、ふてくされた。
 折角見舞いに来てやったのだ、飯を食わせろ、と言う。ここには余った飯などないと返すと、余った米と饗する米は違うだろうと生意気な口を叩く。疑うなら米倉を見せてやると言うと本気にした。
「莫迦が」
 福岡は天井を向いて溜息をついた。
「おいは動かれんとぞ」
 夏の匂いの残るあの港を懐かしく思う。本来ならば冬を越すまでいるものなのだ。それを、下がらせた。自分まで城に戻った。長崎奉行の勧めとは言え、確かにのっぴきならぬ荒廃を見せる我が身、我が土地とは言え。
 手を伸ばす。長崎の身体が目の前にあるようだ。ぬるい風。あの身体を、一人ぼっちに残して帰ってくるなどと。
「……熊」
「なんや」
「離れろ」
 間近で鼻息を吹きかける熊本を手で押しやり福岡はそっぽを向くが、熊本は追いかける。
「そやん塞ぐなよ」
「往ね。わいの相手はせん。死ぬごつきつか」
「死ぬわけなかろが。ほう、見てみんか」
 蒲団の中から引き摺り出され、襖の向こうを見る。緑がある。松だ。そして潮風。冷たい香りがする。我が海。
 もっと近くで見たいと言った。肩を支えようとする熊本の背に無理矢理乗った。
「待て。待たんか。重か」
「ほう、行け」
「行けて、お前、重かぞ」
「軽か方たい」
 実りなき秋を前に。きっと琵琶よりも軽い。本当ならば重い重いと熊本を泣かせてやりたかったものを。
 熊本は身体を大きく傾ける。福岡はその背の上に俯せに寝そべっているような心地だ。実際、しっかりとした背中で乗り心地は悪くない。文句を言うのをやめた熊本は、ふん、と息を吐いて踏ん張りのしのしと松の生え並ぶ原へ足を運ぶ。




しゃさんの県擬の二次。