手に入れた女




 男は無表情だった。疲れ果てた気配が全身から滲み出ていた。湯を使ったはずなのに、濡れた髪も、膝の上に握った拳も泥水を被ったままのように見えた。恐らく冷たい身体なのだろう。蒼い顔にそう思った。外は雨だった。豪雨が降り続いていた。
 正面に座る女もまた疲れてはいた。戦いの疲労があった。勝利者に纏わる義務も、得た力を行使することも、敗者のそれ程ではないにしろ存在した。しかし煩わしいとは思わなかった。女は微笑さえ湛えていた。手で押すと男の身体は簡単に傾いた。抵抗は一切なかった。だから彼女は容赦せず両手で掴んで押し倒し、男の上に馬乗りになった。
 裾が大きく割れた。女の手は自ら帯を解きにかかる。指先に焦りに似た熱っぽさがあった。楽しみを待てないという無邪気さが手指の先を縺れさせていた。重たい着物が後ろに落ち襦袢だけになると、女は自分を落ち着かせるように溜息をついた。笑みでもって男を見下ろした。男は無表情のままだった。女は男の手を取り、僅かに肌蹴た胸元に手を差し入れさせた。
「したかったんでしょう」
 冷たい掌が胸に触れる。
「いつだって、したがったじゃないの」
 掌がぎこちなく開き乳房を掴む。そこに微かな意志が宿った。男は身体を起こして女の胸の間に顔を埋めた。口づけのつもりかもしれなかった。やがて息が漏れ、冷たい歯が乳房を掠めた。女は小さく声に出して笑い、再び男を押し倒した。舌がこっそりと唇を舐め、紅が半分落ちた。男はその様を虚ろな目で、しかしつぶさに見ていたのかもしれなかった。目が伏せられた。
「まだよ」
 女が言う。
「これからなの」
 交わっては眠り、起きたらまたする。決して自堕落な日々ではなかった。血みどろの戦いの続き、戦の熱を鎮めるため余韻を吐き出し続けるような交わりだった。一度の交わりには長い時間をかけた。たっぷりと女は味わっていた。男の身体と自分の手に入れた勝利、それらの与える快楽を一滴余さず味わい尽くした。
 ある時、蒲団の下で眼鏡が割れた。男のかけていた眼鏡だ。男は蒲団に横たわったまま呆然と横目にそれを見た。女は蒲団を捲って払い出した残骸の、レンズを唇に押し当てた。慈しむような仕草だったので、血が滲んだ時男の目は驚きに見張られた。女は血に濡れた唇を相手に押し付けた。ようやく解放された唇は赤く艶々と濡れていた。
 男に跨がったまま、女は声を上げて笑った。嘲笑いでもあった。しかしそこには自嘲もあった。悲しみ、復讐心、様々なものが入り交じっていた。しまいに女は笑いながら涙をこぼした。
「ねえ」
 白い手が相手の尻を叩く。
「しないの?」
 男の両手がゆるゆると伸びた。女ははそれを掴んで自分の尻へ誘った。
「触って」
 指が僅かに白い肉に食い込む。
「ねえ」
 男の紅を頬までなすり付け、女は囁いた。
「好きよ」


出てゆく男




 胡座をかいた男の、物言わぬ背中を長崎は呆然と見つめた。
 ――なんね。
 走馬燈のように過ぎゆく光景は多すぎて、しかしその全てを記憶し、ああこれはあの時のあなたの泣き顔、怒った顔、と一つ一つ言い当てることができる。こちらに背を向けたこの男。もうすぐこの玄関から出てこの家から去ってゆく男。わたしの男。わたしのもの。それが当たり前だった。
 ――あんた、うちのこと好きだったと。
 馬鹿じゃなかとね、と思わず唇からこぼれた呟きが、しかし届いたのか男は振り返った。最初から隠していなかった。しかしどうしても分かりづらいのだ、この男は。無愛想で、無口で、ぶっきらぼうで、吝嗇で、頑固で。
 一途で。
 サッ、サッ、と音を立てて畳を擦り近づきながら、帯留めに手を掛けている。相手の襟首を掴んで座敷に引き入れる時には裾が乱れていた。まるで頬を張るような手で障子を閉めると、それはパシンと乾いた音を立てた。
「馬鹿じゃなかとね…」
「だけん、言うたろが」
 言うとらん、聞いとらん、と呟きながらもうそれ以上の言葉を必要としないと知っていたのは長崎であり、不器用に言い募ろうとする男の口を塞いだ。




2014.12 しゃさんの県擬の二次。佐賀併合。