わたしは夢からさめている






 長い夢を見ていた。私は長い夢の中にいた……。急な喪失感が女を襲った。目の前に示された歴史は確かに自分のものだった。しかしこの頭の中にある記憶とは一致しない。
 人間が間違えている。十分にあり得るだろう。人などたかだか百年さえ生きることのできない、しかも片端から忘れてしまう生き物が確かな記録など残せたためしがないではないか。修正改竄はお手の物。そうやって作られた歴史ではないか。そうだ、自分には記憶がある。連続した意識と確かな経験がある。
 ――でも全て夢だったとしたら。
 大和朝廷の支配など、長崎に限らずほぼ全ての地で見る言葉だ。この島国は大和であった。なれば当然。長崎とて当然。
 ――そうよ、土蜘蛛討伐に彼が現れて…、私はまだ幼かったから戦を見ているばかりだったのだわ。佐賀の背中が焼けるのを…。
 肉体が軋みを上げ引き攣った。手袋の下で手指が疼いた。火傷の疼きだ。手袋を外しても痕は見えない。だがあの火は今も時々内側から焼く。
 ――思い出してしまったから。
 焼く。
 焼かれる。
 この掌の下で、佐賀の背が焼け爛れ。
「違うわ」
 女は声に出して否定した。それは記憶ではなかった。妄想だった。奈良が用いたのは天の火、神の火だ。焼いて灰にするが爛れさせはしなかった。何もかも一瞬で炭になって…。
「…ちがうったら」
 女は青ざめてソファにもたれかかる。手から離れた校正刷りが床の上に散乱した。足下を白く敷き詰めるそれから目を逸らし、長崎は固く目蓋を閉じる。闇の中に記憶も塗り潰す。思い出しても詮方ない。今更何がどう変わるだろう。何も変わりはしないのだ。瑕は瑕。元に戻ることなどない。
 あの男は記憶しているのだろうか。自分たちの身に真実何があったかを…。
 ――違うわよ…。
 他の真実など存在しない。己の記憶に残ったものこそ長崎の真実だ。それ以外の何が起きたと他人から説かれたとて、長崎は決して思い出すことができない。思い出せる記憶がない。
 暑く、息が苦しかった。焦土の匂いだ。原爆の火に焼かれ、雲仙の火に焼かれ、灰色の地に独り佇む絶望の匂い。空から火が降る。沃野が焼ける。私は確かにそれを見たわ。声がする。私を呼ばないで。私には何もできないのよ。
「長崎!」
 窓の開く音。風が通る。
「随分な有様じゃないよ」
「…鹿児島?」
「もう十一月だってのにやってらんないよね。どうしてこんなに暑いんだろ。アイス食べよう。坂の下で買ってきたの」
「ああ…お茶を淹れる…?」
「おい、顔真っ青よ」
 長崎は床を見た。窓から吹き込む風に校正刷りがさわさわと攫われる。
「暑気にあたったのよ。本当ね、もう十一月なのに」
 大丈夫かと隣に腰掛ける鹿児島の胸に、長崎はもたれかかった。弾力のある胸に手を這わせながら、この下には傷痕があると思った。実際見もしたが、こうして触れていると着物を越しても傷の存在が感じられる。それが鹿児島の一部だからである。彼女の誇る身体を、傷はなんら損ないはしない。むしろ戦った証であるぞとそれを誇る。
「鹿児島…」
「アイス食べる?」
「うん」
 食べさせて、と言う。鹿児島は珍しく甘えを聞いてくれる。カップの中のバニラアイスを木のスプーンでそっとこさいで長崎の唇に近づける。唇を開け、歯を立てて一口食べた。
「冷たいでしょ」
「ええ」
「気持ちいい?」
「うん」
 もう一口。口中に広がるバニラの香り。甘い雫が舌から染みとおる。
「ねえ、鹿児島」
「ん」
「浮気しない?」
「あんた…本命いたんだ」
 宮が妬くからしない、と鹿児島は答えた。
「妬いたっていいじゃない。妬かせなさいよ」
「他人事だと思って」
「他人事ですもの。きっと刺激的よ」
「止してよ。だいたいあたし…」
 言い淀む胸を長崎は強く掴む。
「私が抱いてもいいのよ?」
「いよいよ止しなって」
 それでも寂しい帰るなとせがめば一つベッドに寝てくれた。毛布では暑い。更紗をふわりとかける。茜色に染め抜いた更紗の下では鹿児島の肌の色も白い。頬杖をつき、鹿児島は覗き込む。
「このベッド狭くない?」
「昔のだもの。江戸時代にオランダから買ったの」
「物持ちいいね」
「どうかしら…」
 甘えかかるように頬を摺り寄せると、肉付きのいい腕が差し出された。鹿児島の腕枕に首を委ね女はそっと目蓋を伏せる。
「昔のことも忘れてばっかり…」
「そう? あたしたちが産まれた時のこと、よく覚えてるって熊が言ってた」
「…………」
 長崎は薄闇の中、更紗の間に掌を滑らせ双丘の形をなぞった。鹿児島の乳房は大きく、重みがあった。掌いっぱいで掴んでも余る。長崎は溜息を吐き、弾力のあるそれを掌で包み込んだ。太腿を摺り寄せ足を絡めとる。厚みのある太腿はひんやりとしている。男の膚とは違う。
「…あなたの話が聞きたいわ」
「うちの?」
「眠れるまで、お話しして頂戴」
「じゃあ話しちやろう。うちのお気に入りのお豊の話ばしてやろう」
 島津の退き口は寝物語にするには血なまぐさい。だが長崎は目を瞑り鹿児島の言葉に耳を傾ける。掌の下には傷がある。それが生きてどくどくと脈打っている。そうよ、この肉体が証なの。私たちの中にある記憶が本物の歴史だわ。
 鹿児島の方が先に眠ってしまう。長崎は午後に開け放したままだった窓から夜風が吹き込むのを聞く。襦袢の隙間から手を差し入れると、呼吸とともに上下する胸の動きが心地よい。穏やかな波。楠を刳り貫いた船。月夜の湾。身体は小さくなり船にすっぽりと収まる。少女は眠る。傍らの女に身体を摺り寄せる。昼はぬくいが、十一月、夜風は冷たい。




しゃさんの県擬の二次。